【宮城県石巻市】地名「石巻」の読み方・由来語源をたどる旅in石旋の伝説・和渕神社・大島神社・伊寺水門

私は地域文化の記事を書き続けている。祭り、食、工芸、信仰──土地に根づいた文化には、暮らしの記憶と祈りが宿っている。なぜこの地名がこの場所にあるのか。なぜこの言葉がこの風景に結びついているのか。その問いを胸に、私は現地を歩き、見て、聞いて、考えながら記録してきた。

今回訪れたのは、宮城県石巻市。三陸の南端に位置し、北上川と迫川が流れ込む水郷地帯であり、古くから湊町として栄えてきた場所だ。石巻という地名は、全国的にも知られているが、その由来については諸説ある。私はその謎を追うため、石巻の中心部にある住吉公園と大島神社、そして市街地から少し離れた和渕地区にある和渕神社を訪れた。

地名は、ただの呼び名ではない。そこには、土地の記憶と人々の想いが刻まれている。石巻という名がどこから来たのか──その背景には、巨石の伝説、水門の記憶、そして古代から続く信仰が静かに息づいていた。

参考

石巻市「寄稿文

河北新報「発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>古代の石巻地方はなんて呼ばれてたの?

牡鹿港から石巻港へ

かつて石巻の港は「牡鹿港(おしかのみなと)」と呼ばれていた。これは、江戸時代にこの地が牡鹿郡に属していたことに由来する。石巻村は牡鹿郡の一部であり、港町としての機能を果たしていたため、郡名を冠して「牡鹿港」と呼ばれるようになった。地名は行政区分と密接に結びついていたのだ。

その後、明治22年(1889)に石巻村・門脇村・湊村が合併して「石巻町」が成立。これにより、港の呼称も「石巻港」へと変化していった。地名が変わることで、港のアイデンティティも更新されたのである。

とはいえ、「牡鹿港」という呼び名には、郡を代表する湊としての誇りが込められていた。

石巻の読み方・語源や由来

石巻は「いしのまき」と読む。宮城県の北東部に位置する港町で、人口は県内で2番目に多い。古代から牡鹿柵があったり、貝塚があるなど歴史が古く、ゆえに地名の由来・語源は諸説あるそうだ。

石巻という地名の由来のひとつに、「石旋(イシノマキ)」の説がある。これは、住吉社──現在の大島神社──の前に、烏帽子のような形をした巨石があったという伝承に基づくものだ。その石の周囲では水が渦を巻いて流れ、自然の紋様のように見えたことから、「石旋」と呼ばれるようになったという。

石巻の由来となった大島神社(住吉社)へ向かう

私はその石を見ようと住吉公園を訪れた。だが、残念ながら石そのものは見つけることができなかった。震災の影響で周囲の松は枯れ、景観も変わってしまったようだ。それでも、公園の静けさの中に、かつてこの地に巨石があったという記憶が漂っているように感じた。

『封内風土記』には、川の中に高さ6尺、東西9尺、南北3尺8寸の石があり、地元の人々が「石巻石」と呼んでいたと記されている。その石が水の流れとともに巻かれるように見えたことが、「石巻」という地名の由来になったというのだ。

所在地: 〒986-0821 宮城県石巻市住吉町1丁目3−1

電話番号: 0225-22-1423

石巻の由来となった和渕地区へ向かう

石巻という地名の由来を探る旅の途中、私は「もっと古い記憶に触れられる場所があるかもしれない」と思い、石巻市北部の和渕地区に向かった。地図を眺めていて気になったのが、和渕神社という名の古社。延喜式神名帳にも記載があるという式内社で、地名のヒントが眠っているような気がした。

迫川の流れに沿って車を走らせる。川の上流に向かうにつれ、風景は静けさを増し、山裾に佇む和渕神社の境内に着いたとき、私は「ここに何かある」と直感した。こういう古い神社には、地名の由来や土地の記憶に関わる伝説が残っていることが多い。石巻という名の源流を探すなら、ここを訪れずにはいられなかった。

境内は木々に囲まれ、手水舎には清らかな水が湧いていた。祭神には経津主神、武甕槌神、大巳貴神、そして水神である髙龗神(たかおかみのかみ)が祀られている。和渕山は北上川と江合川、追川の合流点に近く、水の力が集まる場所だ。こうした地形から、水神への信仰が自然と根づいたのは当然のことだろう。

由緒には、坂上田村麻呂がこの地に神を勧請したという伝承も残る。真偽は定かではないが、古代の東北における信仰の広がりを感じさせる。さらに、香取神宮から神船が漂着し、船澤山に神を祀ったという話も伝わっている。地名「和渕」も、川が神取山にぶつかって渦を巻く様子から「輪淵」と呼ばれたことに由来するという。

私は社殿の前に立ち、風に揺れる木々を眺めながら、石巻という名が単なる港町の記憶ではなく、川の源流から始まる物語であることを静かに感じていた。石は見つからなかったが、ここに来たことで、地名の奥にある祈りと風景の重なりに触れられた気がした。

所在地:〒987-1102 宮城県石巻市和渕和渕町1

電話番号:0225734104

参考:宮城県神社庁「和渕神社(わぶちじんじゃ)

石巻の由来となった伊寺水門

石巻という地名には、もうひとつ有力な説がある。それが「伊寺水門(いじのみなと)」の転訛によるものだ。かつて石巻の湊は、迫川の河口に位置し、伊寺川──現在の迫川──が流れ込む港だった。この港は「伊寺水門」と呼ばれ、物資の集積地として栄えていた。

「伊寺」は「伊治」とも書かれ、栗原市にある伊治城(いじじょう)との関係が指摘されている。伊治城は奈良時代、大和朝廷が蝦夷との戦いの拠点として築いた城であり、坂上田村麻呂が征討軍を率いてこの地に進軍した記録も残っている。伊治城は迫川の上流域に位置しており、川の流れがそのまま石巻の港へとつながっている。つまり、伊寺水門とは、伊治城の地名が川を通じて河口にまで及んだ結果とも言える。

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私は旧北上川と迫川の合流点付近を歩きながら、かつての湊町の面影を探した。今では堤防が整備され、静かな水面が広がっているが、昔はここから船が出入りし、物資が運ばれていたのだろう。伊寺水門という名は、港と川と人の暮らしが結びついた記憶の名残だ。

この「伊寺水門」が「石巻」へと転じたという説は、漢字の意味にとらわれず、音の変化として理解すべきだろう。昔の人々は「イジ川」「イシ川」と呼び、やがてその音が「石巻」へと定着した。地名は、言葉の流れでもある。そしてその流れの奥には、古代の政治と戦争、そして信仰が静かに息づいている。

まとめ

石巻という地名は、ただの地理的な呼び名ではない。それは、水と石と人の暮らしが織りなす記憶の結晶であり、自然と信仰、歴史と物語が重層的に絡み合った文化の名でもある。住吉社前の巨石に渦巻く水の紋様──「石旋」の伝説。迫川の河口に広がった港町「伊寺水門」の記憶。そして、坂上田村麻呂の勧請伝説や香取神宮との縁を感じさせる和渕神社の静けさ。どれもが、石巻という名の背景にある風景と祈りを語っていた。

私は現地を歩きながら、地名が風景そのものであることを実感した。石は見つからなかったが、見えないからこそ語り継がれる価値がある。和渕神社では、地名のヒントを探しに来たという目的が、いつしか土地の空気に触れる時間へと変わっていた。水の合流点に立つ社、湧き水の音、山の静けさ──それらが、石巻という名に宿る祈りの深さを教えてくれた。

地名の由来を探る旅は、土地の記憶と人々の想いを辿る旅でもある。石巻は、川と海が交差する湊町であり、物語と信仰が息づく場所だ。その名には、自然の力と人の営みが込められている。私はこの旅を通じて、地名が語る文化の奥深さと、風景に刻まれた祈りのかたちを静かに感じていた。

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