【宮城県気仙沼市】「早馬」の由来・語源をたずねるin午年の馬の神社「早馬神社」
宮城県気仙沼市唐桑町。リアス式海岸が織りなす美しい入江に、静かに佇む神社がある。早馬神社——「はやまじんじゃ」と読むこの社は、鎌倉時代に創建され、源頼朝の命により北条政子の安産祈願を執り行ったという由緒を持つ。以来、安産・子育ての神として、また「早くうまくいく」ご利益を授ける神として、地元の人々に篤く信仰されてきた。
この神社がなぜ「馬」にまつわる名前を持ち、なぜ気仙沼でこれほど親しまれているのか——その背景には、唐桑の地に根ざした生活と祈りの歴史がある。かつて軍馬や農耕馬を育てる牧場が広がっていたこの地では、馬は単なる家畜ではなく、暮らしを支える大切な存在であった。馬の安産を願い、馬の健康を祈ることは、人の暮らしそのものを守ることに等しかった。
私はこの夏、早馬神社を訪れた。目的は「夏詣(なつもうで)」——半年の無事を感謝し、これからの平穏を願う参拝である。境内には風鈴の音が涼やかに響き、撫で馬と呼ばれる神馬像が静かに佇んでいた。東日本大震災の津波にも耐えたこの像は、地域の希望の象徴でもある。祈りの場としての神社、そして地域文化の核としての神社——その両面を持つ早馬神社の魅力を、現地で感じたままに綴ってみたい。
参考
気仙沼さ来てけらいん「早馬神社 | 【公式】気仙沼の観光情報サイト」
早馬神社の語源・由来・読み方
早馬神社(はやまじんじゃ)という名称には、古来より縁起の良い意味が込められている。「早馬」とは、文字通り「早い馬」を意味し、古代・中世においては急報や吉報を届けるための使者としての馬を指す言葉でもあった。つまり「早馬が来る」とは、「良い知らせが早く届く」ことを象徴する言葉であり、現代に通じる「早くうまくいく」という願いの原型でもある。
この神社の創建は建保5年(1217年)、鎌倉幕府の武将・梶原景実によるものである。景実は、源頼朝の命を受けて夫人・北条政子の安産祈願を執り行い、無事男子(後の二代将軍・源頼家)を出産したという史実が『吾妻鏡』に記されている。この出来事が、早馬神社が安産・子育ての神として信仰される由来である。
また、神社では「馬九行久守(うまくいくまもり)」というお守りが授与されており、九頭の馬が描かれたこの守りには「万事馬九行久(ばんじうまくいく)」という言葉が込められている。これは、勝負運・出世運・健康運・家庭運など、九つの運気を司る縁起物であり、馬という存在が単なる動物ではなく、生活全般における成功と安定の象徴として信仰されていることを示している。
「早馬」という言葉は、単なる地名や社名ではなく、地域の人々の願いと祈りが凝縮された文化的な表現である。早く、確かに、良い方向へ進むこと——その願いが、神社の名に込められているのである。
参考
早馬神社/宮城県気仙沼市/馬の神社午年御縁年 -はやまじんじゃ-
宮城県神社庁「早馬神社(はやまじんじゃ)」
所在地:〒988-0534 宮城県気仙沼市唐桑町宿浦75
電話番号:0226322321
なぜ宮城県の港町で馬なのか
気仙沼市は、三陸沿岸に位置する港町であり、漁業や海の文化が色濃く根付いた地域である。一般的に港町といえば魚や船のイメージが強く、馬とは縁遠いように思われがちである。しかし、早馬神社がこの地で篤く信仰されてきた背景には、宮城県や岩手県南部がかつて優れた馬の産地であったという歴史的事実があるからではないだろうか。
宮城県大崎市鬼首は、かつて仙台藩の軍馬を生育していた歴史がある。事実、鬼首の荒雄川神社には金華山号という木彫りの良馬が置いてあり、かつての馬の産地であったことが示されている。仙台市の陸奥国分寺薬師堂では、かつて馬市があり、それにちなんで「木下駒」という民芸品がいまも販売されている。
また、気仙沼市の近隣には、源義経が奥州藤原氏にかくまわれた平泉がある。義経は騎馬戦術に長けた武将として知られ、その技術は岩手南部から宮城北部にかけての寒冷地で習得されたとされる。寒冷地では筋肉質で持久力のある馬が育ちやすく、気仙沼を含む三陸沿岸は、良馬の産地としても知られていた。馬は山や高原だけでなく、寒冷な海辺の地でも育まれていたのである。
このように、気仙沼は港町でありながら、馬と深い関わりを持つ土地であった。早馬神社がこの地に根付いたのは、馬が生活の一部であり、祈りの対象でもあったからである。津波にも耐えた神馬像「撫で馬」が今も境内に佇む姿は、馬がこの地の人々にとっていかに大切な存在であったかを静かに語っている。
夏詣と「馬九行久守」
気仙沼市唐桑町に鎮座する早馬神社では、毎年7月1日から8月31日まで「夏詣(なつもうで)」が行われる。これは、年の前半の無事を感謝し、後半の平穏を願う参拝行事であり、近年全国の神社で広まりつつある新しい風習である。早馬神社の夏詣は、ただの季節行事ではなく、地域の人々の心を癒し、祈りを新たにする特別な時間として定着している。
境内に足を踏み入れると、まず耳に届くのは風鈴の音色である。一の鳥居脇には厄除け風鈴棚が設置され、風が吹くたびに涼やかな音が響き渡る。手水舎には季節の花々が浮かべられた「花手水」が彩られ、参拝者の目を楽しませる。こうした演出は、暑さの中でも心を清め、穏やかな気持ちで祈りを捧げられるよう工夫されたものである。
夏詣期間中に授与される「馬九行久守(うまくいくまもり)」は、早馬神社の象徴とも言えるお守りである。表に一頭、裏に八頭の馬が描かれたこの守りには、「万事馬九行久(ばんじうまくいく)」という言葉が込められており、九つの運気——勝負運、出世運、愛情運、健康運、金運、家庭運、受験合格、豊漁、豊作——を授けるとされている。夏詣限定の瑠璃色の馬九行久守は、清々しい青が印象的で、参拝者の手に次々と渡っていた。
また、境内には「厄玉」と「厄割石」が設置されており、参拝者は厄玉に穢れを託し、厄割石に打ち付けて祓い清める。釣竿で釣る「一年安鯛みくじ」や「ご縁むすび紐」など、参拝者が楽しみながら祈りを捧げる工夫が随所に見られ、神社が地域の人々の心の拠り所であることを実感する。
このように、早馬神社の夏詣は、視覚・聴覚・触覚を通じて五感で祈りを体感できる場である。単なる参拝ではなく、季節の移ろいとともに心を整える時間として、多くの人々に親しまれている。馬という縁起物を通じて「うまくいく」願いを託すこの文化は、現代の生活にも通じる普遍的な祈りのかたちである。
訪れて分かった「気仙沼といえば早馬神社」と言われる理由
早馬神社が気仙沼でこれほど親しまれている理由は、単なるご利益の多さにとどまらない。唐桑町は「森は海の恋人」という言葉で知られるように、海と森が密接に結びついた土地である。宿浦港を見下ろす高台に鎮座する早馬神社は、まさにその交差点に位置し、漁業者や農業者、子育て世代など、あらゆる人々の祈りを受け止める場となっている。
また、神社の境内には詩人・梶原しげよのギャラリーが併設されており、文化的な発信の場としても機能している。しげよ氏は早馬神社の社家に生まれ、世界的な詩人として活躍した人物である。彼の詩は、神社の精神性と地域の暮らしを結びつけるものであり、参拝者に深い感銘を与えている。
さらに、早馬神社は交通安全祈願や神前結婚式、神葬祭など、人生の節目に寄り添う儀式を多く執り行っている。こうした多様な祈りのかたちは、神社が単なる宗教施設ではなく、地域文化の核として機能していることを示している。
まとめ
早馬神社を訪れて感じたのは、祈りが地域文化の根幹を成すということである。鎌倉時代に源頼朝の命で北条政子の安産祈願が行われたという由緒、藩政時代に優れた馬を産した瀬崎野牧場の記憶、そして津波にも耐えた神馬像「撫で馬」——それらはすべて、気仙沼の人々が自然とともに生き、困難を乗り越えてきた証である。
「早馬」という名には、「早く良い知らせが届く」「早くうまくいく」という願いが込められている。馬は速さと力の象徴であり、生活の成功や安定を祈る存在として古くから信仰されてきた。港町である気仙沼に馬の信仰が根付いた背景には、寒冷地で育つ良馬の産地としての歴史や、源義経の騎馬戦術がこの地域で磨かれたという伝承も関係している。
早馬神社は、安産・子育て・勝負運・金運など多岐にわたるご利益を授ける神社として、地域の人々に親しまれている。夏詣や午年御縁年など、季節や干支に応じた行事も豊富であり、参拝者が自然と祈りを重ねる場として機能している。詩人・梶原しげよのギャラリーや神前結婚式、交通安全祈願など、人生の節目に寄り添う儀式も充実しており、神社は単なる宗教施設ではなく、地域文化の核としての役割を果たしている。
「うまくいく」という言葉は、現代に生きる我々にとっても切実な願いである。仕事、家庭、健康、子育て——人生のあらゆる場面で、早馬神社の祈りは静かに寄り添ってくれる。気仙沼の海と森に抱かれたこの社は、地域の誇りであり、未来へとつながる文化の灯火である。