【宮城県】光源氏のモデルがなぜ名取市に?藤原実方はどんな人?実方中将の墓や笠島道祖神、和歌やエピソードをたずねる

NHK大河ドラマ『光る君へ』の放送により、源氏物語の主人公・光源氏が改めて注目を集めている。平安貴族の恋と栄華を描いた物語のモデルには諸説あるが、その一人とされるのが藤原実方中将である。宮廷で風流才子として名を馳せ、清少納言との交際伝承も残る彼が、なぜ遠い陸奥の地で命を落としたのか──その謎に惹かれ、私は宮城県名取市を訪ねた。

【宮城県】地名「名取市」の読み方や由来語源をたずねるin名取川・あんどん松・貞山運河・閖上市場

名取市は宮城県南部に位置する水と歴史の町。地名の由来にはアイヌ語説や湿田地形説があり、名取川や貞山堀など水辺の風景と深く関係しています。伊達政宗による木流し堀…

名取市愛島塩手にある「藤原実方中将の墓」は、笠島道祖神前で落馬したという伝承に基づく。都から遠く離れたこの地に、光源氏のモデルとされる人物が眠っていることは、文学史の不思議であり、同時に土地の文化を映す鏡でもある。墓の周辺には、西行や松尾芭蕉、正岡子規らが訪れた痕跡が残り、歌碑や句碑が静かに佇んでいる。

名取川は古来より歌枕として知られ、恋や名声をめぐる歌が数多く詠まれた。「みちのくに ありといふなる 名取川 なき名とりては 苦しかりけり」(壬生忠峯)──古今和歌集に収められたこの歌は、名取川の名が「名を取る」に通じることから、恋の噂や評判を詠んだものである。名取という地名そのものが文学的象徴であり、実方の墓がここにあることは偶然ではないように思えた。

私は笠島道祖神にも足を運び、芭蕉が「笠島はいづこ五月のぬかり道」と詠んだ句碑を眺めた。実方の非運な死を悼む歌人たちの声が、千年を超えて今も響いているように感じられた。名取市を歩くことは、光源氏のモデルとされる人物の人生を追体験し、歌枕の地に刻まれた文化の記憶に触れる旅であった。

参考

名取市観光物産協会「中将藤原朝臣実方の墓

名取市歴史民俗資料館「藤原実方の墓

実方中将の墓とは

名取市愛島塩手にある「藤原実方中将の墓」は、平安時代中期の歌人・藤原実方が陸奥守として赴任中に亡くなった地と伝えられている。伝承によれば、長徳4年(999年)、実方が笠島道祖神前を馬に乗ったまま通過した際、神前で下馬しなかったため神罰が下り、馬が倒れて落馬し、その下敷きとなって命を落としたという。

この非運な死を哀悼して、西行法師は「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて 枯野の薄かたみにぞ見る」と詠み、松尾芭蕉は『奥の細道』で「笠島はいづこ五月のぬかり道」と残した。正岡子規もまたこの地を訪れ、実方を偲ぶ句を詠んでいる。墓の周辺にはこれらの歌碑や句碑が点在し、文学的記憶が重層的に刻まれている。

墓は農村の静かな風景の中にあり、訪れる者は千年前の悲劇と文学の余韻を同時に感じ取ることができる。名取市観光協会によれば、墓の近くには駐車場も整備され、地域の人々によって守られている。実方の墓は単なる史跡ではなく、文学と信仰が交差する場として、今も人々を惹きつけている。

実方中将(藤原実方)とは

藤原実方(ふじわらのさねかた)は、平安時代中期の貴族であり歌人、中古三十六歌仙の一人に数えられる。父は藤原定時、祖父は左大臣藤原師尹という名門の出で、若くして宮廷に仕え、左近衛中将にまで昇進した。

和歌の才に優れ、勅撰和歌集に数多くの歌が収められている。百人一首にも「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」が選ばれ、恋の情熱を詠んだ歌人として知られる。清少納言との交際伝承も残り、風流才子として後世に語られた。

しかし、宮廷で藤原行成と口論となり、冠を投げ捨てるという事件を起こしたことで、一条天皇の怒りを買い、「歌枕を見てまいれ」と陸奥守に任じられたと伝えられる。これは左遷ともいわれるが、陸奥は歌枕の宝庫であり、文学的には都人に憧れられた地でもあった。

実方は陸奥で多くの歌を残したが、笠島道祖神前で落馬し、不運の死を遂げた。享年40前後とされる。彼の死は都人の同情を呼び、後世には亡霊譚や雀に転生したという説話まで生まれた。光源氏のモデルとされるのは、彼の美貌と恋多き人生、そして非運の死が文学的に重ねられたためである。

実方の墓が名取市に残ることは、歌枕の地に刻まれた文学史の象徴であり、宮城の文化的魅力を今に伝えている。

参考

名取市「藤原実方朝臣~みちのくに落ちた明星~ (ひとくち市史 第七回)

藤原実方朝臣の墓(歌人実方中将、平安時代 )

所在地: 〒981-1239 宮城県名取市愛島塩手字北野42

藤原実方と百人一首

藤原実方の代表作として知られるのが、小倉百人一首第五十一番に採られた恋歌である。

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

後拾遺和歌集 藤原実方

この歌は『後拾遺和歌集』に収められたもので、恋の激しい情熱を詠んだ一首である。伊吹山に生える「さしも草」(よもぎ)は、火にくべるとすぐに燃え上がることから、燃えやすい草として古来より知られていた。実方はその草を比喩に用い、自らの恋心が燃え盛るように激しいものであることを表現している。

「かくとだに」とは「このように燃えている」と言いたい気持ちでありながら、相手には伝わっていない。「さしも草」の燃えやすさを知っているはずなのに、恋の炎の激しさを相手は理解してくれない──そのもどかしさと切なさが込められている。

この歌は、実方の恋多き人生を象徴するような作品であり、彼が光源氏のモデルとされる所以の一端を示しているともいえる。燃え上がる恋心と、それを伝えられない苦しみ。平安貴族の恋の情念が凝縮された一首として、千年を超えて読み継がれている。

陸奥に歌枕を見に行けというエピソード

藤原実方中将が陸奥に下向することになった背景には、一条天皇の前での事件がある。宮廷で藤原行成と和歌をめぐって口論となり、激高した実方が行成の冠を投げ捨てたと伝えられる。この振る舞いが天皇の怒りを買い、実方は「歌枕を見てまいれ」と命じられ、陸奥守に任じられたという逸話が残る。

この言葉には、単なる左遷の意味だけでなく、文学的な含意がある。陸奥は古来より歌枕の宝庫であり、名取川武隈の松宮城野など、都人が憧れた名所が数多く存在した。歌枕とは、和歌に詠まれることで特定の情景や感情を呼び起こす地名のことであり、都人にとっては遠い東北の地が文学的想像力をかき立てる舞台だった。

【宮城県仙台市】地名「宮城野」の読み方・語源や由来・歌枕・宮城野萩を追うin仙台野草園

地域文化には、土地の記憶と人の祈りが織り込まれている──そう感じるようになってから、私は各地の地名や伝承を辿る記事を書き続けている。地名は単なる地理的ラベルでは…

【宮城県岩沼市】日本三大稲荷の1つ「竹駒神社」の読み方・由来・語源をたどるin馬事博物館・武隈の松

宮城県岩沼市の竹駒神社は、日本三大稲荷の一社として知られ、稲作・商業・縁結びの神を祀る霊験あらたかな神社。境内には馬事博物館や巨大な提灯、唐門などが並び、馬の…

実方の下向は、都人にとって「流離譚」として語られるにふさわしい出来事だった。光源氏のモデルとされるほど恋多き人生を送った才人が、都を離れて辺境の地で客死する──その物語性が後世の人々の心を打ち、数々の伝承や説話を生んだのである。実方の死後、西行や芭蕉、子規らが墓を訪れ、歌を残したことも、この逸話の文学的な広がりを示している。

私はこのエピソードにちなみに、実際に名取市の実方中将の墓、笠島道祖神、名取川へ向かった。

実方中将の墓を訪ねる

名取市愛島塩手の田園地帯を歩いていくと、静かな集落の一角に「藤原実方中将の墓」がある。周囲は畑と林に囲まれ、遠くに名取川の流れを望むことができる。華やかな宮廷で恋と歌に生きた人物が、千年の時を経てこの地に眠っていることを思うと、不思議な感慨が湧いてくる。

伝承によれば、実方は陸奥守として赴任中、笠島道祖神の前を馬に乗ったまま通過し、神罰によって落馬し命を落としたという。その遺骸はこの地に葬られ、以来「中将実方朝臣の墓」として人々に守られてきた。墓石は素朴な形ながら、周囲には西行や芭蕉、正岡子規らが訪れた痕跡が残り、文学的記憶が重層的に刻まれている。歌枕であるこの地の詩と私なりの解説を紹介したい。

朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて 枯野の薄かたみにぞ見る

西行法師

解説:西行は、実方の墓を訪れた際に、彼の名が千年を超えて残ることを「かたみ」として薄の穂に託した。枯野に揺れる薄は、実方の形見であり、名声だけが朽ちずに残ることを象徴している。西行の歌は、実方の非運な死を悼みつつ、文学的記憶が永遠に続くことを示すものである

笠島はいづこ五月のぬかり道

奥の細道 松尾芭蕉 

解説:芭蕉は『奥の細道』の旅で実方の墓を訪ねようとしたが、五月雨に阻まれ、ぬかるんだ道を前にして遠望するにとどまった。その悔しさを詠んだのがこの句である。芭蕉にとって実方の墓は、文学的憧憬の対象であり、訪ねられなかった無念さが逆に句の余韻を深めている。

旅衣 ひとへに我を 護りたまへ

正岡子規

解説:この句には、旅の途中で病を抱えながら生きた子規の心情が重なる。子規は23歳の時に結核を患い、吐血を機に「子規(しき)」と名乗ったという。子規とは「ホトトギス」の異名であり、血を吐いて鳴く鳥に自らを重ねた皮肉な名前である。文学を愛しながらも病によって筆を折らざるを得ないかもしれないという不安を抱えていた彼にとって、途中で都を離れ、陸奥で馬から落ちて非運の死を遂げた藤原実方の姿は、どこか自分自身の境遇と重なって見えたのではないだろうか。

子規の句は、実方の墓に祈りを捧げると同時に、自らの文学人生の儚さを映し出している。文学を志しながら途中で途絶えるかもしれない不安と、都でまだやるべきことがあったのに陸奥で命を落とした実方の姿。その二人の人生の交差が感じられた。

墓の前に立つと、風が吹き抜け、薄の穂が揺れていた。西行が「かたみ」とした薄が今もこの地に生えていることに、時の流れを超えた連続性を感じる。実方の墓は単なる史跡ではなく、文学と信仰が交差する場であり、訪れる者に静かな感動を与える場所である。

名取市という地名そのものが歌枕であり、古今和歌集に「みちのくに ありといふなる 名取川 なき名とりては 苦しかりけり」と詠まれたように、恋や名声をめぐる歌が数多く残されている。実方の墓がこの地にあることは、歌枕の地に文学的記憶が重なった必然のように思えた。

参考

名取市観光物産協会「歴史めぐり

笠島道祖神と名取川

名取市愛島笠島に鎮座する佐倍乃神社──かつて笠島道祖神社と呼ばれたこの社は、藤原実方中将の落馬伝承の舞台として知られている。境内には拝殿や本殿、神楽殿など複数の社殿が整い、歴代伊達藩主からも厚く尊崇された由緒ある神社である。祭神は猿田彦神と天鈿女命で、道開き・交通安全・縁結びの神として今も地域の人々に信仰されている。例祭では宮城県指定無形文化財「道祖神神楽」が奉納され、土地の文化を今に伝えている。

社の前に立つと、風が抜け、薄の穂が揺れていた。西行がこの地を訪れ、実方の名を「かたみ」として薄に託した歌を残したことを思い出す。名声の儚さと、自然の中に残る記憶が重なり合う瞬間だった。松尾芭蕉もまた『奥の細道』の旅でこの地を目指したが、五月雨に阻まれて参拝を断念し「笠島はいづこ五月のぬかり道」と詠んだ。実際に歩いてみると、雨に濡れた道がいかに難所であったかが想像でき、芭蕉の句の情景が現実の風景と重なって見えた。

正岡子規もこの地を訪れ、病を抱えながら祈るように句を残している。文学を志しながら途中で断たれるかもしれない不安と、都でまだやるべきことがあったのに陸奥で命を落とした実方の姿。その重なりを思うと、子規がこの地で感じ取ったものが伝わってくるようだった。

そして、神社から少し歩けば名取川が流れている。川面に光が反射し、静かに流れるその姿は、古今和歌集に「みちのくに ありといふなる 名取川 なき名とりては 苦しかりけり」と詠まれた歌枕そのものだった。名取川の名が「名を取る」に通じることから、恋や評判をめぐる歌が数多く残されている。川を眺めながら、地名そのものが文学的象徴であることを改めて実感した。

笠島道祖神──現在の佐倍乃神社と名取川を歩くことで、私は実方の人生と文学的記憶が重なり合う風景に触れることができた。詩や句に導かれてわざわざこの地まで足を運んだことが、土地の静けさと文学の響きを一層深く感じさせてくれる。宮城の文化的奥行きを体感できる、特別な場所であった。

参考

名取市観光物産協会「佐倍乃神社(道祖神社)

佐倍乃神社(正一位笠島道祖神社)

所在地:〒981-1238 宮城県名取市愛島笠島西台1−4

まとめ

藤原実方中将の墓を訪ねる旅は、光源氏のモデルとされる人物の流離譚を追体験するものであった。宮廷で才人として名を馳せた実方が、陸奥に赴任し、笠島道祖神前で非運の死を遂げた。その物語は、都人にとって辺境の悲劇として語られ、後世の文学者たちに深い共感を呼び起こした。

西行は薄の穂波を「かたみ」として詠み、芭蕉は「笠島はいづこ五月のぬかり道」と残した。正岡子規もまたこの地を訪れ、実方を偲ぶ句を詠んだ。千年を超えて文学者たちが足を運び、歌や句を残したことは、実方の墓が単なる史跡ではなく、文学的記憶の場であることを示している。

名取川は古来より歌枕として知られ、恋や名声をめぐる歌が数多く詠まれた。「みちのくに ありといふなる 名取川 なき名とりては 苦しかりけり」──壬生忠峯の歌は、名取川の名が「名を取る」に通じることから、恋の噂や評判を詠んだものである。名取という地名そのものが文学的象徴であり、実方の墓がここにあることは必然のように思えた。

名取市を歩きながら、私は地名が文化を語る器であることを改めて実感した。光源氏のモデルとされる人物が眠る地、歌枕として都人に憧れられた川、文学者たちが訪れた史跡──それらが重なり合い、名取は宮城の文化的奥行きを今に伝えている。実方の墓を訪ねることは、宮城の魅力を再発見する旅であり、地名に刻まれた記憶を辿る行為そのものであった。

\ 最新情報をチェック /

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です