【宮城県石巻市】難読地名「長渡浜」の読み方・由来・語源をたどる旅in網地島(あじしま)
地名は、土地の記憶を編み込んだ器である。私は地域文化を記録する仕事をしている。各地の地名の由来や伝承、神社の祭神、産業の背景を掘り下げ、現地の空気を感じながら文章にする──それが私の旅のかたちだ。
今回訪れたのは、宮城県石巻市牡鹿町に属する「長渡浜(ふたわたしはま)」という地名。牡鹿半島の南端、網地島の南側に位置するこの浜は、かつて仙台藩の流刑地として知られ、藩政期を通じて蔵入地とされていた。地名に「渡」の字が含まれること、そして「長渡」「ふたわたし」という複数の読み方が伝わることに、私は強く惹かれた。
長渡浜は、網地島を縦断して北西の網地浜へ通じる道があり、両浜の境には根滝山がそびえる。私はその山道を歩きながら、地名が語る風景と歴史の記憶に静かに触れた。
長渡浜は、網地島を縦断して北西の網地浜へ通じる道があり、両浜の境には根滝山がそびえる。私はその山道を歩きながら、地名が語る風景と歴史の記憶に静かに触れた。
参考
宮城県「平成21年1月号」
石巻観光協会「網地島 | 一般社団法人 石巻観光協会」
目次
長渡浜の読み方
長渡浜は「ふたわたしはま」と読みます。宮城の人気海水浴場である網地島の南地域のことです。
長渡浜の語源由来──「ひたわたり」と呼ばれた水際の平地
「長渡浜(ふたわたしはま)」という地名の語源は、江戸期の地誌『観蹟聞老志』に記された以下の記述に由来するとされる。
「其水汀平処曰 長(ひたわ) 渡(たりと)」
かつては「ひたわたり」と称され、水際の平坦な場所を意味していた。この「ひたわたり」が転訛し、「長渡(ながわたし)」あるいは「二渡(ふたわたし)」と呼ばれるようになったと考えられる。地名に「渡」の字が含まれることから、渡船場や通行の要所としての性格も帯びていた可能性がある。
実際、網地島の南端に位置する長渡浜は、島内の交通の要衝であり、北西の網地浜へ通じる道が通っている。地形的にも、浜辺の平坦さと水際の広がりが「渡る」地名の成立を裏付けている。
藩政期の記録──流刑地としての長渡浜
長渡浜は仙台藩の遠島十八成組に属し、藩政期を通じて蔵入地として管理されていた。正保郷帳および元禄年間の記録には、以下のような原文が残されている。
正保郷帳:「田四貫三〇一文・畑二貫二二四文」 元禄年間:「田四貫八五一文・畑三貫四四文、ほかに茶畑八文・海上高二貫九四三文」1
また、人口は47人、在家の規模も詳細に記されており、地名が行政と統治の記憶を刻んでいることがわかる。長渡在家は東西二町四五間・南北一町一〇間、根組(端郷)は東西一町二〇間・南北五三間と記録されている。
これらの記録は、地名が単なる呼称ではなく、統治・隔離・生産の場として機能していたことを示している。
現代の網地島──宮城のハワイと呼ばれる透明な海
長渡浜が位置する網地島は、現在では「宮城のハワイ」とも称されるほど、透明度の高い海と美しいビーチで知られている。特に網地白浜海水浴場は、白砂とエメラルドグリーンの海が広がり、夏季には多くの観光客が訪れる人気スポットとなっている。
かつて流刑地として隔離された島が、今では癒しと憩いの場として再生されていることは、地名が語る風景の変遷を象徴している。私は長渡浜の静かな海辺に立ち、かつての記憶と現在の光景が重なり合う瞬間に、深い感慨を覚えた。
まとめ──長渡浜という地名に宿る水際と再生の記憶
長渡浜という地名は、水際の平地「ひたわたり」に由来し、渡るという言葉に通じる交通と隔離の記憶を宿している。私は網地島の南端を歩きながら、その名に込められた意味を探った。根滝山の峠道、静かな浜辺、そして藩政期の流刑地としての記録──それらは、地名が語る風景だった。
「長渡」は、平坦な水際の地形を表すと同時に、渡る・隔てる・通じるという意味を含んでいる。仙台藩の蔵入地として、流刑者を受け入れたこの浜は、地名に「渡」の字を刻むことで、歴史と風土の記憶を後世に伝えている。
そして今、網地島は「宮城のハワイ」と呼ばれるほどの美しい海を持ち、癒しの場として多くの人々を迎えている。地名は、風景と暮らし、統治と祈り、そして再生の記憶を編み込んだ器──長渡浜という名が語る物語を、私は静かに辿った。
投稿者プロ フィール

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地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。
