【宮城県石巻市】日本最古の木造教会建築「旧石巻ハリストス正教会」を訪ねるin中瀬公園・旧北上川河口

地名や建築物の名は、土地の記憶を映す器だ。私は地域文化を記録する仕事をしている。各地の伝統産業や民俗、地名の由来、そして建築に刻まれた歴史を掘り下げ、現地の空気を感じながら文章にする──それが私の旅のかたちだ。

今回訪れたのは、宮城県石巻市。目的は、日本最古の木造教会堂建築として知られる「旧石巻ハリストス正教会(旧聖使徒イオアン聖堂)」を訪ねること。旧北上川の中洲にある中瀬公園の一角、石ノ森萬画館の向かいにその教会堂は静かに佇んでいた。

明治12年(1879年)に建てられたこの教会堂は、ロシア正教会の流れを汲むハリストス正教会の聖堂として、石巻の信徒たちの手によって建設された。十字型の平面、瓦葺の屋根、木造二階建て──その姿は、明治初期に西欧文化を受け入れた港町・石巻の記憶を今に伝えている。

私はその静かな聖堂の前に立ち、木の香りと川風に包まれながら、石巻という都市の風土と信仰の深さに静かに触れていった。

参考

日本正教会|ハリストス正教会 The Orthodox Church in Japan

旧石巻ハリストス正教会教会堂 - 石巻市

ハリストス正教会とは、誰が建てたのか、歴史は

石巻ハリストス正教会の起源は、明治初期のロシア正教会の宣教活動にある。日本正教会の創始者である亜使徒聖ニコライ(ニコライ・カサートキン)が東京を拠点に布教を始めたのが1872年。その流れを受け、石巻でも伝教者ペトル朽木らによる宣教が行われ、1877年には23名が洗礼を受けて「石巻光明会」が設立された。

その後、教勢は拡大し、明治12年(1879年)には石巻市千石町に木造二階建ての教会堂が竣工。設計者は不明だが、正教会の建築は信徒によって設計されるのが通例であり、地元の信徒たちが力を合わせて建てたと考えられている。建設費は999円──当時としては大きな額であり、信仰と地域の結束が込められた建築だった。

この教会堂は、昭和53年の宮城県沖地震で被災したが、市民の声により中瀬公園に移築・復元され、昭和55年に石巻市指定有形文化財となった。2011年の東日本大震災でも津波に耐え、奇跡的に流失を免れたその姿は、石巻の記憶を静かに語り続けている。

参考

旧石巻ハリストス正教会教会堂(市指定文化財)

所在地:〒986-0823 宮城県石巻市中瀬3−18

なぜ石巻にロシア正教会?

石巻にロシア正教会が根づいた背景には、港町としての地理的特性と、明治期の国際交流がある。石巻は旧北上川の河口に位置し、江戸時代から北前船の寄港地として栄えた交易の要所だった。明治以降は開港場として外国船の往来も増え、海外文化への感度が高い土地柄だった。

日本正教会の創始者・聖ニコライ(ニコライ・カサートキン)は、明治初期に東京を拠点として布教を開始。その流れは東北にも及び、仙台や石巻などの人口密集地や港町に伝教者が派遣された。石巻では1877年にペトル朽木らの宣教により23名が洗礼を受け、「石巻光明会」が設立された。これは東北地方で最も早い正教会組織のひとつである。

港町・石巻は、物資だけでなく思想や宗教も受け入れる土壌を持っていた。ロシア正教会の荘厳な祈りと聖堂建築は、異文化でありながらも、石巻の人々にとっては新しい時代の象徴でもあった。

ハリストス正教会とキリスト教

ハリストス正教会は、キリスト教の一派である「東方正教会」に属する教会であり、ロシア正教会の流れを汲む日本正教会の一部である。「ハリストス」とはギリシャ語で「キリスト」を意味し、教会名にその音写が使われている。

キリスト教には大きく分けて三つの系統がある。カトリック、プロテスタント、そして東方正教会。ハリストス正教会はこの三つ目にあたり、教義や儀礼、聖堂建築などに独自の特徴を持つ。例えば、聖堂内には「イコノスタス」と呼ばれる聖像壁があり、聖所と至聖所を隔てる役割を果たす。また、奉神礼(礼拝)は荘厳な聖歌と香の薫りに包まれ、視覚・聴覚・嗅覚を通じて神聖さを体感する構造になっている。

石巻ハリストス正教会は、こうした東方正教会の伝統を日本に根づかせた初期の聖堂であり、明治期の西欧文化受容と信仰の融合を象徴する建築でもある。キリスト教という言葉の中にある多様性──その一端を、石巻の聖堂は静かに伝えている。

旧石巻ハリストス正教会を訪れる

私は秋の午後、石巻市の中瀬公園を訪れた。旧北上川の流れが穏やかに光を反射し、石ノ森萬画館の向かいに、旧石巻ハリストス正教会教会堂は静かに佇んでいた。瓦葺の屋根、十字型の平面、木造二階建て──どこか日本風だが外国の宗教建造物であるその姿は、明治の記憶を今に伝える静かな建築だった。

外観からは、教会というよりも、どこか和風の集会所のような印象も受ける。だが、近づいてみると、軒先の瓦に刻まれた十字架、八角形の塔、アーチ状の窓──西洋建築の意匠が随所に見られ、和と洋が交差する不思議な空気が漂っていた。

内部は公開されており、1階は畳敷きの集会室、2階は絨毯敷きの聖所・至聖所。急な階段を登ると、木の香りと静けさに包まれた空間が広がっていた。窓から差し込む光が、柱の影を長く落とし、まるで時間が止まったかのような感覚に陥る。

私はしばらくその場に佇み、建物が語る記憶に耳を澄ませた。明治の信徒たちが手を動かし、祈りを込めて建てたこの聖堂は、震災にも耐え、今も石巻の風景の中に静かに息づいている。宗教施設としての役割は終えても、文化の器としての力は失われていない──そう感じた。

まとめ

石巻ハリストス正教会(旧聖使徒イオアン聖堂)は、明治12年に建てられた日本最古の木造教会堂建築である。ロシア正教会の流れを汲むハリストス正教会の聖堂として、地元の信徒たちの手によって建てられたその建築は、十字型の平面、瓦葺の屋根、木造二階建てという独自の様式を持ち、和と洋が交差する空間を生み出している。

この聖堂は、昭和53年の地震、平成23年の東日本大震災にも耐え、奇跡的に流失を免れた。現在は中瀬公園に移築・復元され、石巻市指定有形文化財として一般公開されている。宗教施設としての役割は終えても、文化の器としての力は今も失われていない。

なぜ石巻にロシア正教会が根づいたのか──その背景には、港町としての地理的特性と、明治期の国際交流がある。交易の要所として栄えた石巻は、物資だけでなく思想や宗教も受け入れる土壌を持っていた。ロシア正教会の荘厳な祈りと聖堂建築は、異文化でありながらも、石巻の人々にとっては新しい時代の象徴でもあった。

私は聖堂の前に立ち、木の香りと川風に包まれながら、建物が語る記憶に耳を澄ませた。明治の信徒たちが手を動かし、祈りを込めて建てたこの聖堂は、震災にも耐え、今も石巻の風景の中に静かに息づいている。石巻──その名には、祈りと風土、そして文化の記憶が確かに宿っている。

投稿者プロ フィール

東夷庵
東夷庵
地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。

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