【宮城県石巻市】伝統行事「石巻川開き祭り」を訪ねるin日和山・黄檗海門寺・重吉神社・普誓寺
私が地方文化を探訪するようになったのは、地名や祭り、伝承に宿る「なぜここに、なぜこの形で」という問いに惹かれるようになったからである。土地に根差した文化には、語られずに残された祈りや記憶がある。それらを辿ることで、地域の本質に触れ、自分自身の深みとなり、人生が豊かになると感じている。地名とは、土地の歴史と人の営みが凝縮された言葉であり、祭りとはその記憶を今に伝える生きた文化である。
2025年夏、私は石巻市の「石巻川開き祭り」に参加した。川開きという言葉に惹かれたのは、単なる水辺のイベントとしてではなく、その背後にある歴史と祈りに触れてみたいと思ったからである。石巻は、北上川の河口に開けた港町であり、川とともに生きてきた町である。その川に祈りを捧げ、命を慈しむ行事が100年近く続いているという事実に、私は深い敬意を覚えた。
この祭りの源流には、川施餓鬼法会という仏教儀礼がある。かつては黄檗宗の海門寺がその中心を担っていたが、現在は宗派を離れ観音堂となっており、常時人がいるかは定かではない。灯ろうへの記帳や読経は、石巻仏教会が引き継ぎ、震災犠牲者や水難者への供養を続けている。つまり、祭りのベースには祈りがあり、今は川村孫兵衛の偉業を讃える川開きが主軸となりながらも、命を悼む文化が静かに息づいている。
参考
川施餓鬼法会と黄檗宗好日山海門寺
石巻川開き祭りの根底には、川施餓鬼法会という仏教儀礼がある。これは、川で亡くなった無縁仏や水難者の霊を供養するための法会であり、かつては広瀬川の灯ろう流しと同じく黄檗宗のお寺が執り行っており、石巻では好日山海門寺がその中心を担っていたという。海門寺は江戸初期の創建で、川村孫兵衛の菩提寺でもあり、黄檗宗の読経が川辺に響いていた時代もあった。
石巻の名刹である海門寺を見たく日和山に登ったが、現在、海門寺の活動は確認できず、観音堂として静かに佇んでいた。常時人がいるかは定かではなく、石巻川開き祭り実行員会の公式サイトを見ると、供養は石巻仏教会が引き継いでいるようだ。灯ろうへの記帳、読経、震災犠牲者への供養などは、石巻市内の各宗派の僧侶が協力して執り行っている。川施餓鬼法会の精神は、形を変えながらも今も祭りの中に息づいている。
つまり、石巻川開き祭りは、かつての仏教的供養を基盤としながら、現在は川村孫兵衛の偉業を讃える「川開き」が主軸となっている。祈りと感謝、そして命を慈しむ文化が、石巻市民の手によって静かに継承されているのである。
所在地:海門寺(牡鹿観音霊場第20番)
参考
川村孫兵衛の功績
石巻川開き祭りの根底には、江戸時代中期の町人・川村孫兵衛重吉の偉業がある。彼は、北上川の氾濫に悩まされていた石巻の地において、川の流れを制御し、港を開削するという壮大な事業を成し遂げた人物である。伊達政宗の命を受け、孫兵衛は石巻港の整備と北上川の流路変更に着手。当時の技術では困難を極めた工事を、地元の人々と協力しながら完成させた。
その結果、石巻は東北屈指の港町として発展し、物流と文化の拠点となった。孫兵衛の功績は、単なる土木技術者としてのものではない。彼は水と人との関係を見つめ、命を守るために川を整えた「水の守り人」であった。石巻川開き祭りは、そんな彼の志を讃える行事として始まり、今もその精神を受け継いでいる。
私は日和山を後にして重吉神社と普誓寺にある孫兵衛の墓前に立ち、静かに手を合わせた。石巻の水文化の礎を築いた人物の志に触れ、祭りの意味がより深く胸に染み渡った。川を拓くとは、町を拓くことであり、命を守ることである──そのことを、孫兵衛の生涯が教えてくれている。
所在地:〒986-0848 宮城県石巻市新館2丁目6
日和山からの眺望
石巻市街の北西に位置する日和山は、標高56メートルほどの小高い丘である。かつて漁師たちはこの山に登り、海の様子を見て漁に出るか否かを判断した。日和を見る──その名の通り、日和山は命を守る山であり、石巻の人々の生活と祈りが交差する場所である。
私は祭りの合間にこの山へ登った。石段を上がると、眼下には北上川の河口が広がり、その先に太平洋が静かに横たわっていた。川は大きく蛇行しながら海へと流れ出ており、そのスケールに私は言葉を失った。川はただの水の流れではない。それは、命を運び、文化を育て、町を形づくる存在である。
祭りの期間には石巻仏教会の僧侶たちが読経を行い灯ろうが北上川を流れる。震災犠牲者や水難者への供養を続けている。
日和山からの眺望は、石巻という町の成り立ちと、そこに生きる人々の祈りを静かに語っていた。私はその風景の中に、過去と現在、そして未来への祈りを感じた。
所在地:〒986-0833 宮城県石巻市日和が丘2丁目1
灯ろう流しと花火
夜の帳が下りる頃、北上川の河畔には静かな緊張感が漂っていた。石巻川開き祭りのクライマックス──灯ろう流しと花火の時間が近づいていた。私は川沿いに設けられた灯ろう受付で、願い事を記した紙を灯ろうに貼り付けた。「再生」と書いたその言葉には、震災の記憶と、未来への希望が込められていた。
灯ろうは、ただの紙と木の箱ではない。そこには人の記憶と願いが宿っている。川面に浮かべられた灯ろうは、ゆっくりと流れ始めた。風はほとんどなく、川は鏡のように灯りを映していた。水面に揺れる光の列は、まるで命の軌跡のようだった。
この灯ろう流しは、かつて黄檗宗海門寺による川施餓鬼法会に端を発する供養の儀式である。現在は石巻仏教会がその役割を担い、宗派を超えた僧侶たちが読経を行い、亡き人々への祈りを捧げている。震災で失われた命、水難事故で帰らぬ人となった魂──それらすべてが、この川に祈りとして流されていく。
そして、夜空に花火が打ち上げられた。大輪の光が空に咲き、川面にその輝きが映る。歓声が上がる中、私は静かにその光を見つめていた。花火は祝祭の象徴であると同時に、祈りの光でもある。命を悼み、未来を照らす──その二重の意味が、この祭りには込められている。
石巻川開き祭りの夜は、光と水と祈りが交差する時間だった。私はその場に立ち尽くしながら、石巻という町の底力と、文化の深さを感じていた。
まとめ
石巻川開き祭りは、北上川とともに生きてきた町・石巻の祈りと誇りを映す行事である。その起源は、大正5年に始まった川村孫兵衛翁の偉業を讃える供養祭にあり、北上川の治水と港の開削によって石巻を東北屈指の港町へと導いた彼の功績が、今も市民の記憶に刻まれている。
かつては黄檗宗海門寺による川施餓鬼法会が祭りの中心を担っていたが、現在は海門寺が宗派を離れ観音堂となり、供養の役割は石巻仏教会が引き継いでいる。灯ろうへの記帳や読経、震災犠牲者や水難者への祈りは、宗派を超えた僧侶たちの手によって静かに続けられている。つまり、祭りのベースには命を悼む文化があり、今は川開きの祝祭と供養が共存するかたちで継承されている。
日和山から望む北上川の河口と太平洋の広がりは、石巻という町のスケールと命を守る山としての信仰を感じさせる。祭りの夜には灯ろうが水面を流れ、花火が夜空に咲き、祈りと祝福が交差する時間が訪れる。私はその場に立ち尽くしながら、石巻市民の底力と文化の深さに心を打たれた。
この祭りを100年近く守り続けてきた石巻市は、まさに水と祈りの町である。さすが宮城県第2の都市──その言葉にふさわしい誇りと敬意が、川開き祭りには込められている。私はこの祭りに参加できたことを心から嬉しく思い、これからの石巻の繁栄を静かに祈った。