【宮城県石巻市】日本初の太平洋・大西洋往復を達成した伊達政宗とスペイン共同軍による日本統一の夢をたずねるinサン・ファン館

宮城県石巻市の海辺に立つ「サン・ファン館」。そこには、400年前に日本で初めて太平洋と大西洋を往復した西洋式大型帆船「サン・ファン・バウティスタ号」の復元船が静かに佇んでいる。私はその姿を前に、潮風に吹かれながら、伊達政宗の壮大な夢と外交戦略に思いを馳せていた。

この船は、1613年に仙台藩が建造し、支倉常長を正使とする慶長遣欧使節団を乗せて太平洋を渡った。メキシコ、スペイン、そしてローマへ——その航海は、当時の日本にとって前代未聞の国際的挑戦だった。地方大名に過ぎなかった伊達政宗が、なぜローマ法王に謁見する使節団を送り、キリスト教の布教を交渉材料にスペインの軍事力を背景に将軍の座を狙ったのか。その背景には、戦国の終焉とともに新たな秩序を模索する政宗の野望があった。

私はサン・ファン館の展示を巡りながら、政宗がローマ教皇に「忠誠と服従」を誓い、カトリック王として日本を統一しようとしたというアンジェリス書簡の記述に触れた。それは単なる外交ではなく、宗教と軍事を絡めた壮大な構想だった。

この記事では、「サン・ファン・バウティスタ号とは何か」「慶長遣欧使節の目的」「政宗の野望と軍事構想」「サン・ファン館の現地探訪」を軸に、宮城の海辺に宿る歴史の記憶を辿っていく。

参考

宮城県観光協会「歴史の航路を辿る サン・ファン館で出会う時を超えた物語

レファレンス協同データベース「1619年11月30日付のイエズス会アンジェリス神父がローマの」

復元船サン・ファン・バウティスタ号

所在地: 〒986-2135 宮城県石巻市渡波
電話番号: 0225-24-2210

サン・ファン・バウティスタ号とは

サン・ファン・バウティスタ号は、1613年に仙台藩が建造した日本初の本格的な西洋式大型帆船である。船名はスペイン語で「洗礼者聖ヨハネ」を意味し、政宗とスペイン人航海者セバスティアン・ビスカイノが出会った日が聖ヨハネの祭日に当たっていたことから命名された。

この船は、支倉常長を正使とする慶長遣欧使節団を乗せ、石巻を出港。太平洋を横断してメキシコのアカプルコに到着し、さらにスペイン、ローマへと渡った。全長約55メートル、高さ約48メートル、乗員は約180名。建造には仙台藩領の木材が使用され、気仙沼や石巻から資材が集められた。建造期間はわずか45日、延べ3,000人以上が関わったという。

政宗は、スペインとの通商交渉とキリスト教布教の許可を得るため、この船を建造した。だがその背景には、単なる交易目的を超えた壮大な構想があった。アンジェリス書簡によれば、政宗はローマ教皇に対し「忠誠と服従」を誓い、キリシタンの保護を条件にスペインの軍事支援を要請。将軍の座に就き、カトリック王として日本を統一するという野望を抱いていたとされる。

この船は、政宗の国際感覚と技術力、そして外交戦略の象徴であり、戦国時代の終焉とともに新たな秩序を模索する仙台藩の挑戦だった。サン・ファン・バウティスタ号は、ただの船ではない。それは、太平洋と大西洋を越えた夢の器であり、宮城の海辺に刻まれた歴史の証人なのだ。

慶長遣欧使節団の渡航の目的とは

1613年、仙台藩主・伊達政宗の命を受け、支倉常長を正使とする慶長遣欧使節団がサン・ファン・バウティスタ号に乗って石巻を出港した。彼らの目的は、単なる外交使節ではなかった。そこには、通商・宗教・軍事を絡めた政宗の壮大な戦略があった。

第一の目的は、スペインとの通商交渉である。当時の日本は、徳川幕府のもとでキリスト教禁制の方向へと舵を切りつつあったが、政宗は独自の外交路線を模索していた。スペインとの交易を実現することで、仙台藩の経済基盤を強化し、幕府に対する独立性を高めようとしたのである。

第二の目的は、キリスト教の布教許可の獲得だった。政宗は、キリスト教を単なる宗教としてではなく、国際的な交渉材料として捉えていた。スペインやローマ教皇庁との関係を築くことで、仙台藩の国際的地位を高め、将来的な軍事的支援を得る足がかりとしようとした。

実際、使節団はメキシコのアカプルコに到着後、スペイン本国へと渡り、さらにローマへと向かった。ローマでは教皇パウルス5世に謁見し、支倉常長は日本人として初めてバチカンに足を踏み入れた。教皇からは洗礼を受け、名を「ドン・フィリッポ・フランシスコ」と改めた。

しかし、通商交渉は難航した。スペイン側は幕府の禁教政策を懸念し、政宗の申し出に慎重な姿勢を崩さなかった。結果的に、正式な通商条約は結ばれず、使節団は帰国の途につくことになる。

だが、この航海は失敗ではなかった。支倉常長の旅は、当時の日本人が世界とどう向き合おうとしていたかを示す貴重な記録であり、政宗の国際感覚と先見性を証明するものだった。慶長遣欧使節団の渡航は、単なる外交使節ではなく、戦国の終焉とともに新たな秩序を模索する政宗の挑戦だったのだ。

参考

CiNii 図書 「S.アマーティ・伊達政宗遣欧使節記」「アンジェリス書簡」その他の史料

なぜ伊達政宗は超大型のガレオン船をつくれたのか

伊達政宗が建造を命じたサン・ファン・バウティスタ号は、全長約55メートル、高さ約48メートル、乗員180名を超える日本初の本格的な西洋式大型帆船だった。なぜ一地方大名に過ぎない政宗が、これほどの規模と技術を要するガレオン船を建造できたのか。その背景には、彼の政治的野心と技術的先進性があった。

まず、政宗は東北地方を統一した有力大名であり、豊富な資源と人的ネットワークを持っていた。仙台藩領内には良質な木材が豊富にあり、気仙沼や石巻から集められた資材が船の骨格を支えた。さらに、藩内には優れた職人たちが多く、彼らの技術力が建造を支えた。

次に、政宗は西洋技術への関心が非常に高かった。1609年、スペイン船サン・フランシスコ号が房総沖で難破した際、乗組員を救助したことをきっかけに、政宗はスペイン人航海者セバスティアン・ビスカイノと接触。彼から西洋式造船技術を学び、藩内に導入したという。政宗は単なる好奇心ではなく、外交と軍事の両面で西洋技術を活用しようとしていた。

さらに、政宗の野望は国内にとどまらなかった。アンジェリス書簡によれば、政宗はローマ教皇に対し「忠誠と服従」を誓い、キリスト教の保護と引き換えにスペインの軍事支援を要請していたという。将軍の座を狙い、カトリック王として日本を統一する構想を抱いていたと言われている。サン・ファン・バウティスタ号は、その野望を実現するための「外交と軍事の器」だったのだ。

政宗は、戦国時代の終焉とともに新たな秩序を模索していた。彼にとってガレオン船の建造は、単なる技術的挑戦ではなく、世界と対等に渡り合うための第一歩だった。サン・ファン・バウティスタ号は、政宗の国際感覚と戦略眼を象徴する存在であり、宮城の海辺に刻まれた夢のかたちなのだ。

参考

仙台市「主な収蔵品 12 支倉常長に関する資料(目次)|仙台市博物館

サン・ファン館|慶長遣欧使節と支倉常長

キリスト教軍と仙台藩軍による日本制覇とカトリック王「伊達政宗」

伊達政宗が慶長遣欧使節団を派遣した目的は、単なる通商交渉や宗教交流にとどまらない。以前より注目されているのが、アンジェリス書簡に記された政宗の「野望」である。そこには、ローマ教皇に対して忠誠と服従を誓い、キリスト教の保護を条件にスペインの軍事支援を受け、日本をカトリック国家として統一するという構想が記されているという。

この説によれば、政宗はローマ教皇の配下となることを申し出ていた。つまり、仙台藩軍とスペインのキリスト教軍・スペイン海軍を連携させ、徳川幕府を打倒し、自らが将軍の座に就くという大胆な構想だ。政宗が「カトリック王」として日本を統治し、ローマ法王に忠誠を誓うという構図は、戦国時代の常識を超えた国際的な政治戦略だった。事実、江戸末期のアメリカによる日本開国は、海からの軍船による火力の脅しが大きく作用した。江戸幕府は海軍に弱い。伊達政宗は江戸時代初期に気づいていたのかもしれない。

この構想が実現することはなかった。幕府の禁教政策が強まり、スペイン側も日本との通商に慎重な姿勢を崩さなかったため、政宗の申し出は外交的には実を結ばなかった。しかし、政宗がこのような構想を本気で描いていた可能性は、アンジェリス書簡の記述や支倉常長など重臣を派遣した行動からも読み取れる。

政宗は、ただの地方大名ではなかった。彼は国際情勢を読み、宗教と軍事を交差させた戦略を描いていた。キリスト教を単なる信仰ではなく、外交と軍事の交渉材料として活用しようとした点に、彼の先見性がある。

この説は、どこまで信憑性が高いものか分からない。しかし政宗を「東北の覇者」から「世界を見据えた戦略家」へと位置づけるものであり、宮城県石巻市から始まった航海が、単なる冒険ではなく、壮大な国家構想の一端だったことを示している。

参考

ダイヤモンドオンライン「「伊達政宗はスペインと組んで天下を取ろうとした」説の真偽

サン・ファン館を訪ねる

石巻市の海辺に立つ「宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)」は、サン・ファン・バウティスタ号の復元船を中心に、慶長遣欧使節の偉業を伝える施設である。私はこの館を訪れ、政宗の夢と支倉常長の航海に触れる時間を過ごした。

館内に入ると、まず目に飛び込んでくるのが、実物大で復元されたサン・ファン・バウティスタ号の雄姿だ。木造の船体は重厚で、甲板に立つと、400年前の航海者たちの息遣いが聞こえてくるようだった。操舵室や船室も再現されており、当時の航海生活を体感できる。

展示室では、支倉常長の旅路を辿る資料が並ぶ。航海図、外交文書、スペインとの交流記録、ローマ教皇との謁見の様子などが、丁寧に解説されている。中でも印象的だったのが、アンジェリス書簡の翻訳と解説。政宗の野望が記されたその文書は、単なる歴史資料ではなく、戦国末期の国際政治を読み解く鍵となる。

館のスタッフの方に話を伺うと、「この船は、宮城の誇りです」と語っていた。地元の人々にとって、サン・ファン・バウティスタ号は単なる展示物ではなく、政宗の夢と石巻の歴史を象徴する存在なのだ。

私は館を後にし、海辺に立って船を見上げた。太平洋の風が頬を撫で、遠くスペインへと続く航路を思わせた。この船が越えた海は、政宗の野望と支倉常長の使命を乗せていた。石巻という地方都市から世界へ——その物語は、今も静かに語り継がれている。

宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)

〒986-2135 宮城県石巻市渡波大森30−2

0225242210

参考:「サンファン館

まとめ

宮城県石巻市に立つ「サン・ファン館」は、400年前に太平洋と大西洋を越えた日本初の西洋式大型帆船「サン・ファン・バウティスタ号」の復元船を中心に、伊達政宗の壮大な外交戦略と支倉常長の航海の記憶を伝えている。

政宗は、ただの地方大名ではなかった。彼はスペインとの通商交渉を目指し、キリスト教の布教を交渉材料に、ローマ法王に忠誠を誓うことでスペインの軍事支援を得て、日本統一を果たすという大胆な構想を描いていた。アンジェリス書簡に記されたその野望は、戦国末期の国際政治を読み解く鍵であり、政宗の先見性と戦略眼を物語っている。

支倉常長を正使とする慶長遣欧使節団は、サン・ファン・バウティスタ号に乗って石巻を出港し、メキシコ、スペイン、ローマへと渡った。通商交渉は実現しなかったが、ローマ教皇との謁見は果たされ、日本人として初めてバチカンに足を踏み入れた常長の旅は、外交史に残る偉業となった。

私は実際にサン・ファン館を訪れ、復元船の甲板に立ち、展示資料に触れながら、政宗の夢と常長の使命に思いを馳せた。海風に吹かれながら見上げた船の姿は、石巻という港町が世界へと開かれていた証そのものだった。

サン・ファン・バウティスタ号は、宮城県石巻市に刻まれた歴史の象徴であり、政宗の夢を乗せた外交と信仰の器だった。この地を訪れることで、私たちは日本の歴史の中に潜む「世界への扉」に触れることができる。

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