【宮城県】地名「岩沼市」の読み方や由来・語源をたずねるin竹駒神社・岩沼城跡・鵜ヶ崎公園
仙台市の南に位置する岩沼市(いわぬまし)を訪ねると、地名の響きに込められた歴史の厚みを肌で感じることができる。東は太平洋、西には丘陵地帯、北には阿武隈川が流れるこの町は、古くから交通の要衝として栄え、奥州街道と陸前浜街道の分岐点として宿場町「岩沼宿」が置かれていた。現在も仙台空港やJR東北本線・常磐線、国道4号・6号が交差する交通の要地であり、古代から現代まで人と物の流れを支えてきた土地であることがよく分かる。
「岩沼」という地名は、城郭が岩に囲まれ、沼に臨んでいたことに由来すると伝えられている。泉田氏が築いた鵜ヶ崎城(岩沼城)は天然の堀として沼を利用し、周囲には岩質の地形が広がっていた。城の立地そのものが地名となり、やがて町全体を指す呼称へと広がっていったのである。
今回の探訪では、竹駒神社の参道を歩き、門前町の賑わいを感じながら、古代に「武隈」と呼ばれた時代の記憶をたどった。阿武隈川の流れや「八声の橋」の伝承、小野篁と白狐の物語など、岩沼の地名の変遷には神話と信仰が深く関わっている。岩と沼の地形に由来する「岩沼」と、信仰の場としての「武隈」。二つの名が重なり合い、町のアイデンティティを形づくっていることを現地で実感した。
参考
岩沼市「岩沼のはじまり」「岩沼藩の後のものがたり」
七十七リサーチ&コンサルティング「岩沼市」
岩沼市の読み方と由来・語源
岩沼市の読み方は「いわぬまし」である。その由来は、戦国期に泉田氏が築いた鵜ヶ崎城(岩沼城)にあるとされる。城は天然の堀として沼を利用し、周囲には岩質の地形が広がっていた。城郭が「岩」と「沼」に囲まれていたことから「岩沼」と呼ばれるようになり、やがて町全体の地名となった。
文献上では16世紀半ばに「岩沼」という名が確認されているが、それ以前は「武隈(たけくま)」と呼ばれていた。平安期の古文書には「阿武隈」と記され、後に「阿」の字が省かれて「武隈」となったとされる。地名は時代とともに変遷し、信仰や地形に根ざした呼び名が重なり合いながら現在の「岩沼」へと定着した。
城下町として栄えた岩沼は、江戸時代には奥州街道と陸前浜街道の分岐点に宿場町「岩沼宿」が置かれ、交通の要衝として重要な役割を果たした。地名の由来が城郭の立地にあることと、宿場町としての歴史が重なり合い、岩沼は古代から近世に至るまで地域の拠点であり続けたのである。
武隈の里から竹駒神社をたずねる
岩沼の古い呼び名は「武隈(たけくま)」である。阿武隈川の流れと深山(現在の千貫山)にまつわる伝説が残り、山の神と川の神が競い合った結果、川が東へ大きく反れて太平洋に注ぐようになったと語られている。こうした神話的な物語が、岩沼の地名の起こりに深く関わっている。
平安時代には、参議小野篁が陸奥守として赴任する途中、南長谷の小さな橋で白狐が八度鳴いたという「八声の橋」の伝承が残る。篁はその地に社を建て「武隈明神」と名付けた。後に能因法師が境内に「竹駒寺」を建てたことから、「武隈」が「竹駒」へと変わり、現在の竹駒神社へとつながっていった。
地名をたよりに現地訪問すると、現在の岩沼市武隈は住宅街に囲まれた広大な農地になっていた。伝説を信じるならば、この地にはかつて阿武隈川が流れていた。この地の東側には竹駒神社と阿武隈川があるので、そちらも訪れてみる。
所在地:〒989-2452 宮城県岩沼市武隈
実際に竹駒神社の参道を歩くと、門前町の賑わいが今も続いていることに驚かされる。馬市が開かれた歴史を持ち、馬事博物館や御神馬舎がある、参道沿いには商店が並び、信仰と経済が結びついた町の姿を感じることができる。午年の参拝なら竹駒神社だろう。武隈から竹駒へと変遷した地名は、岩沼の信仰と文化の厚みを物語っている。近くには歌枕にもなっている「武隈の松」がある。
竹駒神社の境内に立ち、白狐の伝承を思い返すと、岩沼の地名が単なる地形の記述ではなく、神話と信仰に支えられた文化的記憶であることを実感する。岩沼のルーツを歩く旅は、地名の由来を超えて、土地に息づく物語を体感する時間となった。
竹駒神社
所在地:〒989-2443 宮城県岩沼市稲荷町1−1
岩沼城跡(鵜ヶ崎城)をたずねる
岩沼駅を降り立ち、ほど近い鵜ヶ崎公園に足を運ぶと、そこに「鵜ヶ崎城跡(岩沼城跡)」の標柱が立っている。別名「武隈館」「岩沼要害」とも呼ばれたこの城は、戦国期に伊達氏の家臣・泉田氏が拠点とした後、江戸時代には仙台藩の要害のひとつとして維持された。城は沼を天然の堀とし、岩に囲まれた堅固な平山城であったと伝えられている。
万治3年(1660年)には、仙台藩主伊達忠宗の三男・田村宗良が入封し、岩沼藩三万石が立藩。わずか20年ほどの短命な藩ではあったが、岩沼は一時的に独立した城下町として栄えた。その後、田村氏が一関に移封されると岩沼藩は廃藩となり、再び仙台藩領に組み込まれ、古内氏が代々城主を務めて明治維新を迎える。
現在、城郭の遺構はほとんど残っていないが、公園内には土塁の痕跡がわずかに見られる。かつて奥州街道が城下を貫き、竹駒神社の参道が門前町として賑わった往時を思い浮かべると、岩沼という地名が「岩」と「沼」に由来する必然を実感できる。城跡を歩くことは、岩沼の歴史と地名の記憶をたどる旅そのものであった。
鵜ヶ崎公園
所在地:〒989-2473 宮城県岩沼市土ケ崎2丁目2−31
岩沼市の地勢と暮らし
岩沼市は、東に日本最長の運河である「貞山堀」と太平洋、西に丘陵地帯、北に阿武隈川を抱く自然豊かな地勢を持つ。市域は平野部が広がり、肥沃な土地が農業を支えてきた。特にイチゴの栽培は全国的にも知られ、秋から冬にかけては「仙台いちご」の産地として賑わう。また、阿武隈川や沿岸の漁場に恵まれ、郷土料理「はらこ飯」は伊達政宗の時代から伝わる名物として今も愛されている。
交通の要衝としての役割も大きい。古代には東山道が通じ、江戸時代には奥州街道と陸前浜街道の分岐点として岩沼宿が置かれた。現在もJR東北本線と常磐線が交差し、国道4号・6号が通る。さらに仙台空港が隣接し、鉄道・道路・空港が揃う東北の玄関口として機能している。
暮らしの面では、仙台市中心部まで電車で20分ほどと利便性が高く、都市近郊のベッドタウンとしても発展している。一方で、竹駒神社の参道や農村風景が残り、歴史と自然が調和した町並みが広がる。岩沼はまさに「交通の要衝」と「田園都市」の両面を併せ持つ町である。
まとめ
岩沼市を歩くと、「岩沼」という地名が単なる地形の描写ではなく、歴史と文化の記憶を宿した言葉であることを実感する。鵜ヶ崎城(岩沼城)は、沼を堀とし岩に囲まれた堅固な城であり、その立地がそのまま地名となった。戦国期から江戸期にかけて城下町として栄え、短期間ながら岩沼藩が立藩したことも、この町の歴史の厚みを物語っている。
さらに古代には「武隈」と呼ばれ、阿武隈川や白狐の伝承とともに竹駒神社の信仰が根付いた。武隈から竹駒、そして岩沼へと地名が変遷していく過程には、自然環境と人々の信仰、そして政治的な変化が重なり合っている。竹駒神社の参道を歩けば、今も門前町の賑わいが続き、歴史と暮らしが地続きであることを感じさせてくれる。
岩沼はまた、交通の要衝としての役割を古代から現代まで担い続けてきた。奥州街道と陸前浜街道の分岐点として宿場町が栄え、現在は鉄道・道路・空港が交差する東北の玄関口となっている。こうした地勢的な強みは、農業や漁業の発展を支え、豊かな食文化を育んできた。イチゴやはらこ飯といった名産品は、自然と人々の暮らしが結びついた象徴である。
東日本大震災では甚大な被害を受けたが、復興の歩みを進める岩沼の姿は、地名に込められた「岩」と「沼」のように、強靭さと柔軟さを併せ持つ町の精神を映している。岩沼を訪ねる旅は、地名の由来を探るだけでなく、歴史と文化、そして未来への希望を感じる体験となった。
