【宮城県】地名「多賀城」の読み方や由来・語源をたずねる|国府多賀城とは?2024年に国宝認定された壷碑や奥の細道との関係を紹介
宮城県の地名「多賀城(たがじょう)」は、東北の歴史を語る上で欠かせない存在である。私は地域文化ライターとして現地を歩き、その土地に刻まれた記憶を探ることを大切にしているが、多賀城はまさに「宮城のはじまり、東北のはじまり」と呼ぶにふさわしい場所だと感じた。神亀元年(724年)、大野東人によって築かれたこの城は、陸奥国府が置かれ、奈良の平城京や九州の大宰府と並ぶ律令国家の拠点として機能した。地名の「多賀」は「賀=よろこび」が多いという意味を持ち、国家の安寧と人々の繁栄を願う大和朝廷のビジョンが込められている。
現地を訪れると、復元された多賀城南門が朱色に輝き、奈良の朱雀門を思わせる姿で迎えてくれる。奈良文化の影響を受けた建築様式は、鎮護国家思想の広がりを東北に伝える象徴であり、仏教を導入して災いを防ぎ人々の安寧を祈る姿勢がそこに表れている。さらに、国宝に指定された「多賀城碑」を目にすると、石に刻まれた文字が1300年の歴史を静かに語りかけてくるようで、古代の人々の営みが鮮やかに蘇る。
私は多賀城碑の前に立ち、風に揺れる草木や遠くに広がる仙台平野を眺めながら、この地が東北の政治・文化の中心であったことを実感した。多賀城は単なる遺跡ではなく、国家の理想と人々の祈りが交差する場であり、現代に生きる私たちに「多賀=よろこび」を多くするという意味を改めて伝えている。
参考
多賀城市「多賀城創建1300年記念事業とは」
たがじょう見聞憶「1.多賀城市のプロフィール」
国土交通省「多賀城市の維持向上すべき歴史的風致」
目次
多賀城の読み方や由来
「多賀城(たがじょう)」という地名は、宮城県多賀城市に残る古代城柵の名に由来する。読み方は「たがじょう」であり、古代から続く歴史を背負った名称である。「多賀」という言葉には「賀=よろこび」が多いという意味が込められているとされ、国家の安寧や人々の繁栄を願う象徴的な地名である。
私は現地を歩きながら、この「多賀」という響きに込められた祈りを感じた。神亀元年(724年)、大和朝廷の地方行政の監督官である按察使(あぜち)・大野東人(おおの の あずまびと)によって築かれた多賀城は、陸奥国府が置かれた東北の政治・軍事・文化の中心地であった。律令国家の支配を東北に広げるための拠点であり、奈良の平城京や九州の大宰府と並ぶ存在として位置づけられた。地名に「多賀」と付けられたことは、大和朝廷の国家観を反映しており、平定後の地域に信仰の対象や支配の象徴を置くことで、人々の心を結びつける役割を果たしていたと考えられる。
「多賀」という名称は、神社にも広く用いられている。多賀城市の多賀神社や仙台市富沢の仙台最古の多賀神社は、その代表例である。人々が集い祈る場に「多賀」と名付けることは、喜びや繁栄を願う信仰の表れであり、地名と神社の結びつきが強いことを示している。現地を歩いてみると、地名が単なる呼称ではなく、国家の理想と人々の祈りを重ね合わせた象徴的な存在であることが実感できる。
国府多賀城の意味
多賀城は、奈良時代に陸奥国府と鎮守府が置かれた東北の中心地である。国府とは、律令国家において地方を統治する役所であり、陸奥国府は東北全体を治める拠点であった。鎮守府は軍事的な役割を担い、蝦夷の地を平定するための前線基地として機能した。
私は現地を訪れ、復元された南門を目にしたとき、奈良の平城宮跡で見た朱雀門を思い出した。建築様式や配置に奈良文化の影響が色濃く見られ、律令国家の理想を東北に伝える拠点としての多賀城の役割を実感できた。国府多賀城は、単なる城柵ではなく、国家のビジョンを東北に示す象徴的な存在であった。
鎮護国家思想のもと、仏教を導入して災いを防ぎ人々の安寧を祈る場でもあった多賀城は、国家の理想と人々の祈りが交差する場である。現地を歩くと、広がる仙台平野の風景の中に、古代の人々が暮らし、祈りを捧げた姿が重なって見える。国府多賀城は、東北の歴史を理解する上で欠かせない拠点であり、現代に生きる私たちに律令国家のビジョンを伝えている。
国宝「多賀城碑(壺碑)」を訪ねる
2024年、多賀城市にある「多賀城碑(壺碑)」が国宝に指定されたというニュースを目にしたとき、私は強く心を惹かれた。古代東北の政治・文化の中心を物語る最古の石碑が、なぜ今国宝に指定されたのか。その理由を知りたいと思ったが、書物や記事を読むだけではどうしても実感が湧かなかった。そこで私は現地に足を運び、碑の前に立って確かめることにした。
多賀城碑は奈良時代に建立され、多賀城の創建や改修の記録が刻まれている。石に刻まれた文字は風雨にさらされながらもなお鮮明で、1300年の歴史を静かに語りかけてくる。碑の周囲には草木が揺れ、遠くには仙台平野が広がり、古代の人々がこの地で暮らし、祈りを捧げた姿が重なって見えるようだった。
碑文には、多賀城が律令国家の支配を東北に広げる拠点であったことが記されている。私はその文字を目で追いながら、単なる史料ではなく、国家の理想と人々の祈りを刻んだ証であることを実感した。現地に立つことで、書物では得られない重みや空気を感じることができたのである。多賀城碑は、古代日本と東アジア情勢を映す鏡であり、訪れる者に歴史の深さを伝える存在であった。
所在地:〒985-0864 宮城県多賀城市市川田屋場16
参考
宮城県「多賀城碑 - 宮城県公式ウェブサイト」
東北歴史博物館から歩く、多賀城1300年の歴史散歩 | 「タビスキみやぎ」レポート|観光・旅行情報サイト 宮城まるごと探訪
復元された多賀城南門
多賀城創建1300年を記念して復元された「多賀城南門」は、古代東北の歴史を現代に伝える象徴的な建築である。政庁の正面に位置する南門は、国府としての威厳を示す重要な施設であり、復元にあたっては発掘調査の成果をもとに奈良時代の建築様式が忠実に再現された。朱塗りの柱や屋根の構造は、奈良の平城京にある朱雀門や大極殿を思わせ、律令国家の文化的影響が東北にまで及んでいたことを実感させる。
私はこの南門を訪れたとき、奈良市の平城宮跡歴史公園での記憶が鮮やかに蘇った。奈良に住む友人とよく歴史について語り合ったが、ちょうどツバメのねぐら入りの時期で、大陸から渡り鳥が飛来していた。奈良市はシルクロードの最終地点だと言われるが、渡り鳥たちの通り道を見ていると、文化の流れもまた同じように東へと続いているように思えた。そして私は、多賀城こそがそのシルクロードの終着点であると感じた。
南門の朱色の輝き、蓮華文様の瓦、城柵の作り方は、まさに平城宮跡で見たものと重なり合う。奈良の都と東北の国府が同じ文化的基盤を共有していたことは、鎮護国家思想の広がりを示している。仏教を導入し、災いを防ぎ人々の安寧を祈る姿勢は、南門の荘厳な佇まいにも表れていた。
多賀城南門は、単なる復元建築ではない。奈良文化の影響を受けながらも、東北の地に根付いた歴史を現代に伝える役割を担っている。私は南門の前に立ち、奈良と東北を結ぶ文化の道を思い描きながら、この地が「宮城のはじまり、東北のはじまり」と呼ばれる理由を改めて理解した。
多賀城外郭南門
所在地:〒985-0864 宮城県多賀城市市川田屋場
「多賀」の意味を探る
「多賀」という名称には、「賀=よろこび」が多いという意味が込められているとされる。これは単なる地名の響きではなく、国家の安寧と人々の繁栄を願う大和朝廷のビジョンを反映したものだと考えられる。律令国家が東北を平定した後、その地に「多賀」と名付けることは、支配の象徴であると同時に、人々の信仰の対象を示す行為でもあった。
私は現地を歩きながら、この「多賀」という言葉に込められた祈りを感じた。神社に「多賀」と名付けられる例は多く、近江の多賀大社をはじめ、全国に広がっている。宮城県の多賀城や多賀神社もその一環であり、平定後の地域に信仰の場を設けることで、人々の心を結びつける役割を果たしていた。
「多賀」という名称は、単なる喜びの象徴ではなく、国家の理想と祈りを重ね合わせた言葉であり、律令国家の支配観を東北に刻むものだったのである。私はこの疑問をさらに深めるため、同じ古代の時期から存在する多賀神社を訪ねることにした。地名と神社の結びつきを探ることで、「多賀」という言葉の本当の意味に近づけるのではないかと考えたのである。次の探訪は、神社を巡りながら「多賀」の意味を確かめる旅となった。
参考
宮城県「指定文化財〈特別史跡〉多賀城跡附寺跡」
多賀神社を巡る
多賀城の名を冠する「多賀神社」は、いつからこの地にあるのか正確には分からない。江戸時代の記録にははっきりと登場しないものの、仙台藩の儒学者・佐久間洞巌が著した『奥羽観蹟聞老志』(1719年)には「多賀ノ神祠」として記されており、古代から存在していたことを示唆している。棟札や古文書の断片からも、少なくとも18世紀には市川村に鎮座していたことが分かっている。誰が建てたのか、いつ創建されたのかは不明だが、古代から「多賀」という名称が人々に支持され、信仰の対象となってきたことは確かである。
境内には今も竹の箍(たが)が奉納されているという。延命長寿や病気平癒を願う人々が、自らの年齢の数だけ箍を供える風習が伝わり、地域の人々の祈りを受け止めてきた神社であることが分かる。こうした信仰の形は、時代を超えて「多賀」という言葉が持つ力を示しているように思える。
所在地: 〒985-0862 宮城県多賀城市高崎1丁目14−13
電話番号: 022-362-0732
一方、仙台市富沢にある多賀神社は、さらに古い歴史を持つと伝えられている。日本武尊が東夷追討の際に勧請したとされ、神武東征の時代にまで遡るという伝承が残る。多賀城の歴史的な古さとは異なるが、やはり「多賀」という言葉が古代から大和朝廷に用いられ、重要なビジョンの一つとして位置づけられていたことを感じさせる。
私は現地を巡りながら、「多賀」という名称が単なる地名ではなく、古代から人々の祈りや国家の理想を象徴する言葉として受け継がれてきたのだと実感した。次に私は、この「多賀」という言葉が文学や文化の中でどのように息づいてきたのかを探るため、歌枕の舞台となった多賀城を訪ねることにした。
電話番号:0222458199
多賀城と松尾芭蕉の「奥の細道」
多賀城は、古代から歌枕の地として知られてきた。歌枕とは、和歌や俳句に詠まれる名所であり、文学的象徴を持つ場所である。多賀城周辺には「壺碑(多賀城碑)」や「末の松山」「興井」などがあり、古代から中世にかけて多くの歌人や俳人が訪れ、作品を残した。
元禄2年(1689)、松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅で多賀城を訪れた。苔むした壺碑を目にした芭蕉は、その変わらぬ姿に深い感動を覚え、次のように記している。
「爰(ここ)に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落るばかり也。」
芭蕉は、時の流れにより多くの歌枕が失われていく中で、この碑だけは千年の記念として残り、古人の心を今に伝えていることに感動したのだろう。旅の苦労も忘れ、涙がこぼれるほどの感慨を抱いたと記している。芭蕉の句といえば「不易流行」という概念をよく聞くが、千年も佇むこの壷碑にそれを感じたのだろうか。
さらに芭蕉は「末の松山」にも足を運び、愛の契りの象徴とされる松の間に墓が点在する光景を見て、「契りの末も、終にはかくのごとき」と無常を感じ取った。歌枕は単なる名所ではなく、人々の生と死、愛と別れを象徴する場であり、文学に深い意味を与えてきた。
私は現地を歩きながら、芭蕉が感じた「古人の心」を追体験するような感覚を覚えた。壺碑の前に立つと、苔むした石に刻まれた文字が、千年の時を超えて語りかけてくる。歌枕としての多賀城は、信仰と文学が交差する場であり、東北文化の発信地として今も人々に感動を与えている。
参考
多賀城市「名勝おくのほそ道の風景地」
山梨県立大学「奥の細道多賀城」
まとめ
多賀城は、宮城県の地名であり、東北の歴史と文化を語る上で欠かせない存在である。神亀元年(724年)、大野東人によって築かれたこの城は、陸奥国府と鎮守府が置かれ、奈良の平城京や九州の大宰府と並ぶ律令国家の拠点として機能した。地名の「多賀」は「賀=よろこび」が多いという意味を持ち、国家の安寧と人々の繁栄を願う大和朝廷のビジョンが込められている。
国宝に指定された多賀城碑は、その歴史を物語る最古の資料であり、現地を訪れることで古代の人々の祈りと国家の理想を肌で感じることができる。復元された南門は奈良文化の影響を色濃く受け、朱色の柱や蓮華文様の瓦が律令国家の理想を東北に伝える象徴となっている。私は南門の前に立ち、奈良と東北を結ぶ文化の道を思い描きながら、この地が「宮城のはじまり、東北のはじまり」と呼ばれる理由を改めて理解した。
また、「多賀」という名称は古代から人々に支持され、神社の名としても受け継がれてきた。多賀城市の多賀神社や仙台市富沢の最古の多賀神社を巡ることで、地名と信仰の結びつきを実感した。誰が建てたのか、いつからあるのかは不明だが、古代から「多賀」という言葉が人々の祈りを象徴してきたことは確かである。
さらに、多賀城は歌枕の地として文学的な価値も持つ。松尾芭蕉が『おくのほそ道』で壺碑を前に涙を流したように、歌枕は人々の心を揺さぶり、文化を継承する力を持っている。信仰と文学が交差する場としての多賀城は、今も訪れる人々に深い感動を与えている。
多賀城を巡る旅は、歴史と文化、信仰と文学が重なり合う豊かな体験であった。古代から続く「多賀」という言葉の意味を探りながら、この地が東北文化の発信地であることを改めて感じた。多賀城は、過去と現在をつなぎ、未来へと続く「よろこび」の象徴なのである。
投稿者プロ フィール

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地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。
