【宮城県】日本一の渡り鳥の飛来地「蕪栗沼・伊豆沼・内沼」を訪ねるin大崎市・登米市

冬の宮城県北部──空がまだ薄暗い早朝、伊豆沼の水面に霧が立ち込める。突如、沼の奥から響く「クァーッ」という鳴き声とともに、数千、数万羽のマガンが一斉に飛び立つ。羽音が空気を震わせ、V字編隊が朝焼けの空を切り裂いていく。その光景は、まるで空が動き出したかのような迫力だった。

この地は、渡り鳥の楽園。環境省の調査によれば、宮城県には毎年30万羽以上のガン・カモ・ハクチョウ類が飛来し、全国の渡り鳥のうち約16%がこの地に集まる。特にガン類は、日本に渡来する約9割が宮城県に集中しており、伊豆沼・内沼・蕪栗沼はその中心地だ。

なぜ宮城県北部なのか──それは、自然と人間の営みが織りなす環境にある。冬でも凍らない水面、稲刈り後の落ち穂が残る広大な水田、そして外敵が入りにくい地形。さらに、地元では「ふゆみずたんぼ」などの取り組みを通じて、渡り鳥の越冬環境を守る努力が続けられている。

伊豆沼・蕪栗沼は、ラムサール条約湿地にも登録されており、国際的にも重要な生態系を形成している。蕪栗沼に至っては、沼だけでなく「周辺水田」も保護対象となっており、人と鳥が共に生きる風景が世界に認められた稀有な例だ。

この旅では、渡り鳥の圧倒的な飛翔と、湿地に息づく歴史と文化に触れた。空を舞う鳥たちの姿は、自然の美しさだけでなく、土地の記憶と未来へのまなざしを映し出していた。

参考

登米市「伊豆沼・内沼について

宮城県「宮城県伊豆沼・内沼サンクチュアリセンター

大崎市「蕪栗沼

渡り鳥とは

渡り鳥とは、季節ごとに繁殖地と越冬地を行き来する鳥類の総称である。日本に飛来する渡り鳥の多くは、秋から冬にかけて極東ロシアやシベリアから南下し、温暖な地域で冬を越す。代表的な種にはマガン、ヒシクイ、オオハクチョウ、コクガンなどがあり、いずれも水辺を好む。

彼らの渡りは、数千キロに及ぶ命がけの旅だ。途中で餌を確保できなければ命を落とすこともあり、越冬地の環境は生存に直結する。だからこそ、彼らは安全で餌が豊富な場所を選ぶ。日本では、湖沼や河川、広大な水田地帯がその条件を満たす。

渡り鳥の飛来は、単なる自然現象ではない。彼らが選ぶ土地には、気候、地形、水質、餌場、そして人間の営みが複雑に絡み合っている。渡り鳥は、環境の鏡でもある。彼らが集まる場所には、自然と人が共存できる風景がある。

参考

環境省「渡り鳥の生態 | 渡り鳥関連情報

なぜ全国で宮城県が1位なのか

宮城県は、渡り鳥の飛来数が日本一である。環境省の調査によれば、2018年には全国の渡り鳥のうち約16%が宮城県に飛来し、ガン類に至っては約9割がこの地に集中した。なぜ、これほどまでに宮城が選ばれるのか──その理由は、地形と気候、そして人の営みにある。

まず、宮城県北部には伊豆沼・内沼、蕪栗沼、化女沼などの湖沼が点在しており、冬でも水面が凍りにくい。これは、渡り鳥にとって安全な塒(ねぐら)となる。また、周囲には広大な水田が広がり、稲刈り後の落ち穂が餌となる。特に蕪栗沼では、沼だけでなく「周辺水田」もラムサール条約湿地に指定されており、人の手が加わった環境が保護対象となっている。

さらに、宮城では「ふゆみずたんぼ」などの取り組みが進められており、冬期にも水田に水を張ることで渡り鳥の餌場と休息地を整えている。こうした共存の工夫が、渡り鳥にとっての理想郷を生み出しているのだ。

参考

KHB東日本放送「冬の渡り鳥マガンが飛来 宮城・登米市の水田

伊豆沼・内沼・蕪栗沼の凄さ

伊豆沼・内沼は1985年、蕪栗沼・周辺水田は2005年にラムサール条約湿地に登録された。ラムサール条約とは、水鳥の生息地として国際的に重要な湿地を保護するための国際条約であり、登録には厳しい基準がある。宮城県のこれらの湿地は、その生態的価値と人との共存の実績によって、世界に認められた。

伊豆沼・内沼は、マガンやオオハクチョウの越冬地として知られ、冬には数万羽が集まる。蕪栗沼では、沼だけでなく周辺の水田も含めて保護されており、これは世界的にも珍しい事例だ。人が営む農地が、渡り鳥の生態系の一部として認められたのである。

また、これらの湿地では、観察施設や案内板が整備されており、誰でも気軽に野鳥観察ができる。地元の学校では環境学習の場としても活用されており、自然と人の関係を学ぶ場としても機能している。

このように、伊豆沼・蕪栗沼は、ただ鳥が集まる場所ではない。人と鳥が共に生きる風景が、ここにはある。

伊豆沼

所在地: 〒989-4601 宮城県登米市迫町新田伊豆崎

蕪栗沼

所在地:宮城県大崎市田尻大貫

なぜ宮城北部には沼が多いのか

宮城県北部に沼が多い理由は、地形と歴史、そして人間の知恵が織りなす複合的な背景にある。この地域は、東北最大の河川・北上川が流れ、かつては氾濫原として広大な湿地帯が広がっていた。伊豆沼、内沼、蕪栗沼、化女沼──これらの沼は、北上川の氾濫によって自然に形成された“遊水地”であり、洪水時には水を受け止める緩衝地帯として機能してきた。

古来より人々は、この湿地と共に生きてきた。稲作に適した土地を得るために、沼の周囲を干拓し、水田として活用する技術が発展した。特に戦国時代、伊達政宗は北上川の治水と新田開発を推進し、蕪栗沼周辺の荒蕪地を農業地として整備した。この開拓は、現在の登米・栗原・大崎に広がる肥沃な平野の礎となり、宮城県北部を日本有数の米どころへと導いた。

沼は単なる水たまりではない。水を蓄え、洪水を緩和し、微生物や水草、魚類、そして渡り鳥の命を育む“生態系のゆりかご”である。冬には極東ロシアから渡ってくるマガンやオオハクチョウが、凍らない水面と広大な餌場を求めてこの地に集まる。伊豆沼・蕪栗沼は、こうした鳥たちの越冬地として国際的にも重要な役割を果たしており、ラムサール条約湿地にも登録されている。

つまり、宮城北部の沼は、自然が生んだ地形でありながら、人間の営みと共存し、災害を防ぎ、農業を支え、生物多様性を育む場でもある。ここには、土地と人と生き物が織りなす“共生の記憶”が静かに息づいている。

参考

蕪栗ぬまっこくらぶ|蕪栗沼の歴史と環境
宮城県資料|北上川改修と蕪栗沼周辺の開墾史

朝の飛び立ちと夕方のねぐら入りを訪ねる

私が伊豆沼を訪れたのは、1月の寒い朝だった。まだ夜が明けきらぬ午前6時前、沼の水面には霧が立ち込め、空気は凛としていた。防寒具を身にまとい、観察小屋に向かうと、すでに数人のカメラマンが三脚を構えていた。彼らのレンズの先には、静かに羽を休めるマガンの群れがいた。

やがて、東の空が淡く染まり始めると、沼の奥から「クァーッ、クァーッ」と鳴き声が響き、マガンたちが動き出す。数羽、十数羽、そして一気に数百羽──その羽音は風のようであり、雷のようでもあった。V字型の編隊を組み、彼らは周辺の水田へと向かって飛び立っていく。その姿は、まるで空に描かれた筆文字のように美しかった。

昼間は登米市や栗原市の水田で採餌し、夕方になると再び沼へ戻ってくる。「夕方のねぐら入り」は、朝とは対照的に静かで、数羽ずつが鳴き交わしながら沼へ舞い降りる。その姿には、どこか人間の帰宅風景にも似た温もりがある。

蕪栗沼では、地元の方々が「ふゆみずたんぼ」という取り組みを行っている。冬の間、米を栽培しない水田に水を張り、渡り鳥の餌場と休息地を整えるというものだ。実際に見てみると、渡り鳥が本当に多かった。昔ながらの景色というのは今や貴重。このような風景が全国でここでしか見れないというのは悲しいが、とても感慨深い気持ちになった。農業の機械化により、かつてのような稲束干しがなくなり、マガンによる食害も減った今、こうした共存の工夫が新たな文化として根付きつつある。

この地を歩いて感じたのは、自然の美しさだけではない。鳥たちの暮らしを支える人々のまなざし、そしてその営みが風景の一部になっていることだった。

まとめ文

宮城県北部の湿地を訪れて感じたのは、自然の美しさだけではなかった。伊豆沼・蕪栗沼に集う渡り鳥たちの姿は、空を舞うだけでなく、土地の記憶を語っていた。彼らがこの地を選ぶのは、偶然ではない。水が凍らず、餌が豊富で、外敵が少ない──それは自然の条件であると同時に、人間の知恵と営みの賜物でもある。

蕪栗沼の成り立ちは、戦国時代の伊達政宗による北上川の改修と新田開発にまで遡る。氾濫原だった湿地を治水し、農地として整備したことで、現在の肥沃な平野が生まれた。その延長線上に、渡り鳥の楽園としての蕪栗沼がある。昭和期には洪水対策として再び遊水地として整備され、現在では「ふゆみずたんぼ」などの取り組みを通じて、鳥と人の共存が図られている。

ラムサール条約湿地としての登録は、こうした共生の姿勢が国際的に評価された証でもある。特に蕪栗沼では、沼だけでなく「周辺水田」が保護対象となったことが象徴的だ。人が営む農地が、渡り鳥の生態系の一部として認められたのである。

この旅を通して、私は“見る”だけでなく、“感じる”ことができた。渡り鳥の羽音に耳を澄ませ、空の動きに目を奪われ、沼の静けさに心を預ける──それは、自然と人間の関係を見つめ直す時間でもあった。宮城の冬は、空が語る季節。渡り鳥が描く風景は、私たちに何か大切なことを思い出させてくれる。

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