【宮城県】国宝「多賀城碑(壷碑)」の内容とは?いつ国宝指定に?松尾芭蕉との関係や駐車場・アクセス情報を解説
2024年夏、多賀城市にある「多賀城碑(たがじょうひ)」が国宝に指定されたというニュースを目にしたとき、私は強く心を惹かれた。多賀城市は塩釜市と並び歴史がある町だ。奈良時代に建立された石碑が、1300年の時を超えて今も残り、しかも国宝として未来へ受け継がれることになった。その事実に触れた瞬間、書物や記事を読むだけでは到底理解できない重みを感じ、現地に足を運んで自分の目で確かめたいと思った。
多賀城碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ、日本三古碑のひとつに数えられる。松尾芭蕉が『おくのほそ道』でこの碑を訪れ、「泪も落つるばかり也」と記したことでも知られている。碑文には、多賀城の創建や改修の記録が刻まれており、古代東北の政治・文化を知る上で唯一無二の史料である。
現地を訪れると、南門近くの小さな堂の中に碑が立ち、徳川光圀の進言によって覆屋が建てられ保護されてきた歴史を知ることができる。碑の前に立つと、苔むした石に刻まれた文字が1300年以上の時を超えて語りかけてくるようで、古代の人々の営みや祈りが鮮やかに蘇る。私はその場で、歴史の重みと未来へ残すべき価値を強く実感した。
参考
多賀城市「古今往来-たがじょう人物伝」「名勝おくのほそ道の風景地」
宮城県「多賀城市 構成 文化 財」
目次
多賀城碑とは
多賀城碑(たがじょうひ)は、宮城県多賀城市市川字田屋場に立つ奈良時代の石碑である。高さ約2.48メートル、幅約1メートルの花崗岩質砂岩に141字の碑文が刻まれており、陸奥国府・多賀城の創建と改修を伝える唯一の史料として知られている。碑面の上部には「西」の一字が大きく刻まれ、その下に11行の文字が並ぶ。碑自体も西を向いて立ち、都である平城京に向けて建てられたことを示している。
この碑は江戸時代初期に発見され、当時から歌枕「壺碑(つぼのいしぶみ)」と結びつけられて広く知られるようになった。松尾芭蕉も元禄2年(1689)の『おくのほそ道』の旅でこの碑を訪れ、苔むした文字を前に「古人の心を閲す」と記し、深い感動を残している。
多賀城碑は、群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑と並び「日本三古碑」のひとつに数えられる。古代の地方政治や軍事の拠点を示す貴重な史料であり、碑文の内容は他の文献には記されていない情報を含むため、学術的価値が極めて高い。
現地では、徳川光圀の進言によって覆屋が建てられ、江戸時代から保護されてきた。現在も小さな社の中に安置され、訪れる人々に古代の記憶を伝えている。多賀城碑は、単なる石碑ではなく、1300年以上の歴史を未来へとつなぐ「宮城のはじまり、東北のはじまり」を象徴する存在である。
参考
所在地:〒985-0864 宮城県多賀城市市川田屋場16
多賀城碑の内容と原文とは?
多賀城碑の碑文は、前半と後半に分かれている。原文と内容をそれぞれ紹介する。
西
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷國界一百廿里
去常陸國界四百十二里
去下野國界二百七十四里
去靺鞨國界三千里西
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日参考:現地案内板より
前半には、奈良の平城京、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国(まっかつこく)から多賀城までの距離が記されている。これは律令国家が東北を支配するために設けた国府の位置を示すものであり、当時の交通や地理認識を伝える貴重な記録である。
後半には、多賀城が神亀元年(724年)、按察使兼鎮守将軍であった大野東人によって創建されたこと、天平宝字6年(762年)、参議で東海・東山節度使を兼ねた藤原恵美朝狩によって改修されたことが記されている。そして最後に「天平宝字6年12月1日」と建立年月日が刻まれている。これにより、多賀城碑は多賀城の創建と改修を伝える唯一の文字史料となっている。
碑文の内容は、古代東北の政治・軍事の実態を知る上で極めて重要である。特に改修の記録は、他の文献には残されていない情報であり、1960年代の発掘調査で多賀城の大規模な改修跡が確認されたことで、碑文の信憑性が裏付けられた。
また、碑文に「靺鞨国」と記されている点は議論を呼んだ。靺鞨はすでに渤海と改称されていた時期であり、記録の矛盾から偽作説が唱えられたこともあった。しかし、後の研究で碑文の書体や彫り方が奈良時代の特徴と一致することが確認され、真作説が有力となった。
多賀城碑の内容は、単なる距離や年号の記録ではなく、律令国家の支配観、東北の位置づけ、そして国家の理想を刻んだ歴史の証である。
いつ国宝に認定された?
多賀城碑は、長らく「日本三古碑」のひとつとして知られてきたが、その価値が正式に認められたのは近年である。平成10年(1998年)に国の重要文化財(古文書)に指定され、令和6年(2024年)8月27日に国宝(古文書)に昇格した。
国宝指定の背景には、碑文が古代東北の政治・軍事を伝える唯一の史料であること、そして学術的価値が極めて高いことがある。特に、多賀城の改修を記した碑文後半は、他の文献には残されていない情報であり、1963年の発掘調査で改修跡が確認されたことで、碑文の信憑性が裏付けられた。これにより、偽作説は退けられ、真作説が確立された。
また、松尾芭蕉が『おくのほそ道』でこの碑を訪れ、涙を流すほど感動した記録が残っていることも、文学的価値を高めている。江戸時代から歌枕「壺碑」として広く知られ、徳川光圀が覆屋の建設を進言するなど、全国的に保護の対象となってきた歴史も評価された。
国宝指定は、1300年以上の歴史を未来へ残すための重要な一歩である。現地を訪れると、小さな堂の中に碑が立ち、苔むした文字が今も鮮明に残っている。その姿は、古代から現代へと続く人々の祈りと努力の結晶であり、国宝として次世代に受け継がれる価値を持つ。
多賀城碑が国宝に認定されたことは、宮城県にとっても大きな誇りであり、「宮城のはじまり、東北のはじまり」を象徴する存在として、未来へと語り継がれていくのである。
多賀城碑は偽物って本当?
多賀城碑には、かつて「偽物ではないか」という疑いがかけられた歴史がある。江戸時代末期から明治期にかけて、碑文の内容や書体に矛盾があると指摘され、真贋論争が盛んに行われた。例えば、碑文に記された官位や距離の数値が正史と一致しない点や、文字の彫り方が近世以降の技法に似ているとされたこと、また藤原恵美朝狩によって改修されという一文が、偽作説の根拠となったという。
しかし、1960年代の発掘調査で多賀城の大規模な改修跡が確認され、碑文後半に記された改修の記録と一致したことで、真作説が有力となった。さらに、碑文の文字の配置に奈良時代の「天平尺」が用いられていることや、彫り方が古代の「薬研彫」であることが判明し、近世以降の技法ではないことが裏付けられた。
こうした研究成果により、多賀城碑は奈良時代に建立された本物であると考えられるようになった。偽作説は歴史の一時期に議論を呼んだが、現在では真作説が定説となり、国宝としての価値が認められている。
参考
【特集】長年の「偽物説」を覆した多賀城碑 知られざる研究成果(2024年6月24日掲載)|ミヤテレNEWS NNN
多賀城碑の別名「壺碑」とは?
多賀城碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれている。この呼び名は、江戸時代初期の発見当初から歌枕「壺碑」と結びつけられたことに由来する。歌枕とは、和歌や俳句に詠まれる名所であり、文学的象徴を持つ場所である。壺碑は平安時代から歌に詠まれ、西行や源頼朝、小野小町などの作品にも登場する有名な歌枕であった。
松尾芭蕉も元禄2年(1689)の『おくのほそ道』の旅でこの碑を訪れ、苔むした文字を前に「泪も落つるばかり也」と記している。芭蕉にとって壺碑は、古人の心を今に伝える千年の記念であり、旅の苦労を忘れるほどの感動を与える存在だった。
「壺碑」という別名は、文学的価値を持つ歌枕と結びついたことで全国に広まり、多賀城碑を単なる歴史的遺物ではなく、文化的象徴として位置づける役割を果たした。今日でも「壺碑」という呼び名は親しまれ、文学と歴史が交差する場としての多賀城碑の魅力を伝えている。
参考
多賀城市観光協会「多賀城碑(壺碑・つぼのいしぶみ)|観る」
実際に現地に行ってみた
私は2024年に国宝に指定されたというニュースをきっかけに、多賀城碑を実際に訪ねることにした。復元されて話題になった多賀城南門近くの小さな堂の中に碑が立ち、静かに時を超えて佇んでいる姿を目にしたとき、書物で読むだけでは分からなかった重みを実感した。
碑の前に立つと、苔むした石に刻まれた文字が1300年以上の歴史を語りかけてくるようであった。碑文には、多賀城の創建や改修の記録が刻まれており、古代の人々の営みや祈りが鮮やかに蘇る。徳川光圀が覆屋の建設を進言し、江戸時代から保護されてきた歴史を知ると、全国的に知られる存在であったことにも驚かされた。
1300年以上の歴史が詰まった石碑を目の前にし、これを次世代に残していることに感銘を受けた。現地を訪れることで、書物では得られない空気や重みを感じることができ、紀行文として記すにふさわしい体験となった。
多賀城碑の周辺を歩く
多賀城碑の周辺を歩いていると、漠然と古代の風景が頭の中に浮かんでくる。政庁に向かう役人や兵士、交易に訪れる人々の往来、祈りを捧げる人々の姿が、仙台平野の風景と重なり合うように感じられた。
そのとき私は、奈良市の平城京跡を歩いた記憶を思い出した。友人とともに平城宮跡歴史公園を訪れ、復元された遣唐使船や朱雀門を歩きながら古代の天平文化に想いを馳せたことがある。最後に訪れたのはツバメのねぐら入りの季節で、大陸から長距離を飛来してきたツバメが奈良市で翼を休める時期。奈良の都はシルクロードの終着点とも言われるが、渡り鳥が飛来する姿を見ていると、文化の流れもまた東へと続いているように思えた。そして、多賀城こそがその文化の最終地点であると感じた。シルクロードはユーラシア大陸の果てからの文化が中東・中国を経て日本に渡り、沢山の交易がおこなわれた。今も正倉院にはシルクロード由来の宝物が収められている。多賀城はどうだろうか。
多賀城碑の周辺を歩くと、奈良の朱雀門や大極殿を思わせる南門の復元建築が目に入り、奈良文化の影響を東北に伝える拠点としての多賀城の役割を実感できる。復元された南門は、奈良の朱雀門と同じで、当時の染料で色づけられた朱色だ。蓮華文様の瓦や城柵の作り方は、奈良の平城宮跡で見たものと重なり合い、古代の文化が東北に息づいていたことを示している。
私は碑の前に立ち、奈良と東北を結ぶ文化の道を思い描きながら、この地が「宮城のはじまり、東北のはじまり」と呼ばれる理由を改めて理解した。シルクロードからもたらされた文化は確かに宮城県に届いている。多賀城碑は、歴史と文化、信仰と文学が交差する場であり、訪れる人々に深い感動を与える存在である。
多賀城跡
所在地:〒985-0864 宮城県多賀城市市川
梅月堂菓子本舗で銘菓「多賀城瓦」を味わう
多賀城碑を訪ねた後、私は多賀城市伝上山にある老舗「梅月堂菓子本舗」に立ち寄った。戦前から三代続くこの和菓子店は、史都多賀城にちなんだ銘菓を作り続けており、地域の歴史を甘味に込めて伝えている。店内に並ぶのは「多賀城瓦」「多賀城太鼓」「多賀城碑」という三つの代表銘菓。どれも名前だけでなく、意匠や味わいに歴史の記憶が宿っている。
まず「多賀城瓦」。これはかつての多賀城の瓦に描かれていた蓮華文様をイメージして焼き上げられた焼菓子だ。蓮華文様は仏教伝来を象徴し、泥の中から清らかな花を咲かせる蓮の姿は清浄の象徴であり、鎮護国家の理念を体現している。瓦に刻まれた文様を菓子に込めることで、天平文化の息吹を現代に伝えているのだ。私はその文様を見て、地域に根付いた文化の力を感じ、奈良の東大寺や法隆寺を思い出した。奈良は仏教の都であり、鎮護国家の中心地だった。奈良市の工芸品である赤膚焼にも蓮華文様をあしらった焼き物があり、かつて友人と奈良の赤膚山を歩いた記憶が蘇った。多賀城瓦を口にすると、甘みと香ばしさの中に、奈良と東北を結ぶ文化の道が浮かび上がるようだった。
次に「多賀城太鼓」。これは生クリームとレモン果汁をたっぷり使ったサブレで、太鼓をイメージして手絞りされたもの。爽やかな酸味と甘みが広がり、祭りの太鼓の音のように力強く響く味わいだった。
最後に「多賀城碑」。卵・はちみつ・粉末ピーナッツをふんだんに使ったやさしい味の菓子で、碑の重厚さを思わせる落ち着いた甘みがある。さらに、はちみつと卵黄をたっぷり使ったサブレにあんずジャムをサンドしたものもあり、しっとりとした食感が碑の歴史の深みを連想させた。
梅月堂の銘菓は、単なる甘味ではなく、地域の歴史を形にした文化の証である。多賀城碑を訪ねた後に味わうことで、歴史と日常が結びつき、旅の余韻をより豊かにしてくれる。
参考
多賀城市観光協会「梅月堂菓子本舗|買う」
所在地: 〒985-0872 宮城県多賀城市伝上山2丁目13−12
電話番号: 022-362-2752
駐車場・アクセス情報
多賀城碑が立つのは多賀城南門近くで、最寄り駅はJR東北本線「国府多賀城駅」、徒歩約15分ほどで到着できる。車で訪れる場合は三陸自動車道「多賀城I.C.」から約5分とアクセスも良好だ。
駐車場は「多賀城跡駐車場」が整備されており、無料で利用できる。広さが十分にあり、車椅子用スペースも設けられているため安心して利用できる。トイレも設置されているが、利用者の口コミによれば清潔さにばらつきがあるため注意が必要だ。春には駐車場周辺で水仙や桜が咲き誇り、訪れる人々を楽しませてくれる。
また、駐車場のすぐ近くにはビジターセンターがあり、史跡の解説や「日本100名城スタンプ」を入手できる。Google Map上でも位置は分かりやすく、初めて訪れる人でも迷うことは少ない。朝早く訪れれば混雑もなく、ゆったりと駐車できるとの声も多い。
多賀城碑を含む史跡巡りは、徒歩での散策が基本となるため、駐車場を拠点に歩いて回るのが最適だ。
所在地:〒985-0864 宮城県多賀城市市川立石
まとめ
多賀城碑を訪ねる旅は、古代から現代へと続く文化の流れを体感する時間だった。奈良時代に建立された石碑は、陸奥国府・多賀城の創建と改修を伝える唯一の史料であり、1300年以上の歴史を刻んでいる。かつて偽作説が唱えられたこともあったが、発掘調査や研究によって真作であることが確認され、2024年には国宝に指定された。碑の前に立つと、苔むした文字が古代の人々の祈りを今に伝えていることを実感できた。
また、碑は「壺碑」とも呼ばれ、歌枕として文学的価値を持つ。松尾芭蕉が『おくのほそ道』でこの碑を訪れ、「泪も落つるばかり也」と記したように、文学者たちに深い感動を与えてきた。歴史と文学が交差する場としての多賀城碑は、訪れる人々に古人の心を伝える存在である。
周辺を歩くと、奈良の平城京跡を思い出した。朱雀門や遣唐使船を眺めながら友人と語らった記憶が蘇り、奈良文化と東北文化がつながっていることを感じた。多賀城は、奈良の都と同じ文化的基盤を共有し、東北に鎮護国家思想を伝える拠点であった。
さらに、梅月堂菓子本舗で味わった銘菓は、地域の歴史を日常に溶け込ませる存在だった。「多賀城瓦」は蓮華文様をデザインした焼菓子で、仏教伝来と鎮護国家の理念を象徴していた。「多賀城太鼓」は爽やかなサブレで祭りの力強さを表し、「多賀城碑」はやさしい甘みで歴史の重みを伝えていた。銘菓を通じて歴史を感じることができるのは、地域文化の豊かさを示すものだ。
この旅を通じて私は、多賀城碑が「宮城のはじまり、東北のはじまり」を象徴する存在であることを改めて理解した。歴史と文化、信仰と文学、そして日常の暮らしが重なり合う場所として、多賀城は未来へと続く「よろこび」の象徴なのである。
投稿者プロ フィール

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地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。
