【宮城県】仙台四大画家・東東洋とは?登米・栗原で生まれ育ち京都に行った奇才の魅力をたずねるin仙台市博物館・筆塚
東東洋とは
宮城の文化を探訪する旅の途中、私は仙台市博物館を訪ねた。展示室を歩いていると、一幅の文人調の絵が目に留まった。柔らかな筆致で描かれた風景は、余白に漂う静けさを含み、どこか親しみやすい。解説を読むと「東東洋」とある。珍しい名だと思い、どう読むのか調べると「あずまとうよう」。その瞬間、心が動いた。仙台を代表する画家だという。
東東洋は宝暦五年(一七五五年)、現在の登米市石越町に生まれ、幼少期を栗原市金成町で過ごした。父は学問に通じる一方で絵も嗜み、東洋は自然に絵師の道へと進んだ。十代の頃に狩野派の絵師・狩野梅笑から本格的に学び、江戸へ出て婿養子となり姓「東」を継いだ。その後、京都に上り池大雅らに学び、中国画の模写や南蘋派の技法を吸収しながら画風を磨いた。
展示されていた作品は「河図之図」。黄河から現れた龍馬の背中の旋毛を写したとされる古代中国の伝説を題材にしたもので、仙台藩校・養賢堂の襖絵として描かれた。文化十四年(一八一七年)の制作とされ、戦災で失われた養賢堂の数少ない遺品のひとつだ。大槻平泉の記録により制作年が分かり、仙台藩の学問の場を彩った作品である。
私はその前に立ち尽くし、東洋の筆が描き出した世界に引き込まれた。文人調の柔らかさと、どこかユーモラスな雰囲気が漂う。誰が描いたのかと気になり、解説を読み進めると仙台四大画家の一人だと知った。小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲と並び、仙台の近世絵画を代表する存在である。博物館で偶然出会った作品が、私を東東洋という画家へと導いてくれた。
参考
仙台市「紙本著色河図之図(東東洋筆) - 仙台市の指定・登録文化財」
東東洋の画の特徴と歴史
東東洋の画業は、江戸後期の京都画壇と仙台藩の双方に深く関わっている。狩野派から学び始めたが、やがて円山応挙や四条派の影響を受け、動植物や農村風景を得意とする独自の画風を築いた。応挙が創始した付立技法を取り入れ、枝や葉の描き方にその特徴が見られる。京都では法眼位を得て、妙法院真仁法親王ら文化人との交流を重ね、合作も行った。
仙台藩との関わりは寛政八年(一七九六年)、藩主伊達斉村に召されてから始まる。仙台城二の丸の障壁画を手がけ、文化十四年には養賢堂の襖絵を描いた。藩校の学問の場を彩る障壁画は、東洋の画業の中でも重要な位置を占める。仙台藩の御用絵師として、藩の公的な場を飾る作品を数多く残した。
晩年は仙台に帰郷し、藩の御用を勤める一方で、角田石川氏にも仕え肖像画を制作した。農村風景を好んで描いたのは、江戸前期の絵師・久隅守景の影響とされる。東洋は自然や人々の暮らしを親しみやすい筆致で描き、仙台の文化に根付いた画家となった。
仙台四大画家とは、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲、そして東東洋を指す。彼らは仙台藩の文化を支え、近世絵画の厚みを示す存在である。東洋はその中でも京都画壇での経験を持ち、仙台と京都を結ぶ橋渡し役を果たした。博物館で作品を見たとき、文人調の柔らかさとユーモアが漂う画風に惹かれたが、それは東洋の人柄や文化的背景を映しているのだろう。仙台四大画家の一人としての位置づけは、仙台の文化の厚みを示す証である。
参考
「仙台の近世絵画 東東洋の屏風」 | 展示 | 東北歴史博物館
東東洋の筆塚を訪ねる
博物館で東東洋の作品に出会った後、私は仙台市博物館そばにある筆塚を訪ねた。碑には「恭封廃筆」と刻まれ、号「白鹿園」も見える。恭しく筆を封じるという言葉は、画家の生涯を閉じる象徴であり、東洋の筆を偲ぶ場である。
この筆塚はもともと良覚院丁にあったが、郷土史家三原良吉氏が譲り受け、平成十一年に遺族から仙台市に寄贈されたという。現在は博物館そばに移され、訪れる人々に東洋の存在を伝えている。碑の前に立つと、江戸後期の仙台を代表する画家の息遣いが伝わってくるようで感慨深かった。
博物館で作品を見てから筆塚を訪ねると、画家の生涯がより立体的に感じられる。作品は生き生きとした筆致で自然や人々を描き、筆塚はその筆を封じた静かな場である。動と静の対比が、東洋の人生を象徴しているように思えた。
碑に刻まれた「白鹿園」という号も印象的だった。東洋は鹿の絵を好んで描き、自然との親しみを表現した。実際、私もはじめた見た東洋の作品にやわらかいタッチで描かれた可愛らしい鹿が印象に残っている。号に込められた思いが、筆塚に刻まれることで永遠に残されている。
碑の前でしばらく立ち尽くし、東洋の作品と生涯を思った。登米に生まれ、栗原市金成で育ち、京都で修業を積み、仙台藩御用絵師として活躍した画家。その筆が封じられた碑に立ち会うことで、仙台の文化の厚みを改めて感じた。
仙台市博物館
所在地:〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内26
電話番号:0222253074
参考
仙台市「博物館の自然(東東洋の筆塚)」
東東洋の有名作品と魅力
東東洋の魅力は、文人調の柔らかさとユーモアに満ちた画風にあると思う。彼は動植物を得意とし、農村の風景を好んで描いた。鹿の絵を多く残したことからも自然への親しみが伝わり、号「白鹿園」にその思いが込められているのだろう。筆致は角がなく丸みを帯び、親しみやすい雰囲気を持つ。江戸後期の画壇にあって、狩野派の堅苦しさから離れ、円山応挙や四条派の影響を受けながらも独自の世界を築いた。
代表作には「河図之図」や「耕織図屏風」がある。河図之図は仙台藩校・養賢堂の襖絵として描かれ、文化十四年(一八一七年)の制作とされる。古代中国の伝説を題材にしたこの作品は、仙台藩の学問の場を彩り、戦災で失われた養賢堂の数少ない遺品として貴重である。耕織図屏風は農村の四季を描き、久隅守景の影響を示す作品で、農村の営みを温かく表現している。仙台城二の丸の障壁画も手がけ、藩の公的な場を飾った。
現代では仙台市博物館や東北歴史博物館などに作品が残されている。屏風や襖絵は大画面の特質を活かし、広大な風景や物語を描き出す。東洋の作品は情緒ある雰囲気やユーモアを含み、見る者に親しみを感じさせる。農村風景や動植物の描写は、地域の暮らしや自然を映し出し、仙台の文化を伝える役割を果たしている。
私は博物館で作品を見たとき、文人調の柔らかさとユーモアに惹かれた。筆塚を訪ねた後に改めて作品を思い返すと、画家の生涯と作品が一体となって感じられた。東東洋の魅力は、作品の中に漂う人間味と、地域文化に根ざした温かさにあると感じた。
まとめ
仙台四大画家の一人、東東洋との出会いは偶然だった。仙台市博物館で文人調の柔らかな作品に心を奪われ、解説を読んで初めてその名を知った。登米に生まれ、栗原市金成で育ち、京都で修業を積み、仙台藩御用絵師として活躍した画家。珍しい名に惹かれ、調べるうちに仙台を代表する存在だと分かった。
博物館を出て川内の緑に囲まれた道を歩き、筆塚を訪ねた。碑には「恭封廃筆」と刻まれ、号「白鹿園」も見える。筆を封じた碑に立ち会うと、画家の生涯が静かに伝わってくるようで感慨深かった。作品の生き生きとした筆致と、筆塚の静けさ。動と静の対比が、東洋の人生を象徴しているように思えた。
東洋は狩野派から学び、円山応挙や四条派の影響を受けながら独自の画風を築いた。動植物や農村風景を得意とし、鹿の絵を好んで描いた。仙台城二の丸の障壁画や養賢堂の襖絵など、藩の公的な場を飾る作品を残した。仙台四大画家の一人として、仙台の文化を支えた存在である。
私は博物館で作品を見て、筆塚で生涯を偲ぶことで、東洋の存在をより深く感じることができた。偶然の出会いが導いた探訪は、仙台の文化の厚みを改めて伝えてくれた。東東洋の作品は今も博物館や寺院に残され、地域の人々に親しまれている。
投稿者プロ フィール

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地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。
