【宮城県】世界文学史の巨人「魯迅」ってどんな人?代表作品と解説、なぜ医者や東北大学をやめた?仙台で何をしていた?仙台にある魯迅・藤野先生ゆかりの地にいってみた
仙台の街を歩くと、思いがけず世界文学史の巨人の足跡に出会うことがある。中国近代文学の父と呼ばれる魯迅(本名・周樹人)は、1904年に仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部の前身)に入学した。東京の弘文学院を卒業後、医学を志して仙台に来たのは、留学生社会から距離を置き、静かに学問に打ち込みたいという思いからだった。仙台は彼にとって、異国の中で孤独に学ぶ場であり、同時に人生の転機を迎える場所でもあった。
魯迅は真面目な学生で、教室ではいつも二列目や三列目に座り、講義に耳を傾けていたという。解剖学を担当していた藤野厳九郎教授との出会いは、彼の人生に深い影響を与えた。藤野先生は魯迅のノートを丁寧に朱筆で添削し、学問に真摯に向き合う姿勢を示した。魯迅はその誠実さに感激し、後に随筆「藤野先生」として記録している。
しかし、二年生のときに見た日露戦争の幻灯写真が彼の心を揺さぶった。処刑される中国人の姿を目にし、医学で肉体を救うよりも、文学で精神を変革することこそ必要だと悟ったのである。こうして魯迅は医学を捨て、文学の道へ進む決意を固めた。仙台での生活はわずか一年半だったが、藤野先生との交流や片平キャンパスでの経験は、彼の文学者としての原点となった。
私は実際に片平キャンパスを訪ね、魯迅が学んだ「階段教室」や藤野先生の研究室跡を歩いた。そこには今も静かな空気が漂い、百年以上前の留学生の息遣いが感じられる。仙台は魯迅にとって短い滞在地だったが、文学史に残る大きな意味を持つ場所だった。
魯迅とはどんな人?
魯迅(本名・周樹人、1881–1936)は、中国近代文学の父と称される作家であり、翻訳家、思想家でもあった。浙江省紹興に生まれ、幼少期は裕福な家庭に育ったが、祖父の失脚によって家が没落し、学問を尊ぶ伝統だけが残された。若くして南京の理系学校に進学し、西洋思想に触れたことが彼の人生を大きく変えた。1902年には官費留学生として来日し、東京の弘文学院で学んだ後、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部の前身)に入学した。
魯迅は中国で初めて西洋の技法を用いて小説を書いた作家であり、1918年に発表した『狂人日記』は中国初の口語体小説として文学革命の象徴となった。続く『阿Q正伝』では、中国人の国民性を鋭く批判し、自己欺瞞や卑屈さを阿Qという人物に凝縮させた。これらの作品は中国社会に大きな衝撃を与え、文学を通じて精神の改造を目指す彼の思想を広めた。日本でも『故郷』が国語教科書に収録されるなど、文学史において日中双方に影響を与えている。
文学以外の実績も見逃せない。魯迅は教育行政に携わり、中華民国成立後には教育部の官僚として活動した。また、美術や版画の普及にも尽力し、民衆芸術としての木版画を革命の武器と位置づけた。さらに、翻訳家としてロシア文学や西洋思想を中国に紹介し、知識人層に新しい視野を開いた。雑文集では鋭い論争文を発表し、国民党独裁体制を批判し続けた。
その死後、魯迅は中国共産党によって「革命の聖人」として位置づけられ、毛沢東は「中国の第一等の聖人」とまで評した。文学史においては近代中国文学の基盤を築き、日本文学にも影響を与えた存在であり、思想史においては国民精神の改造を訴え続けた文化的英雄であった。
なぜ医者をやめたのか
魯迅が医学を志したのは、病気や死に苦しむ人々を救いたいという思いからだった。仙台医学専門学校に入学した彼は、真面目な学生として解剖学や基礎医学を学び、藤野厳九郎教授から丁寧な指導を受けた。しかし、二年生のときに見た日露戦争の幻灯写真が彼の人生を大きく変える。
その幻灯には、中国人がロシアのスパイとして処刑される場面が映し出されていた。魯迅が衝撃を受けたのは、処刑そのものではなく、それを見物する中国人たちの姿だった。彼らは屈辱を感じることなく、好奇心に満ちた表情でその場面を眺めていた。魯迅は「愚弱な国民は、たとえ体格が頑強でも、見せしめの材料にしかならない」と考え、肉体を救う医学よりも精神を改造する文学こそ必要だと悟った。
この体験は、後に『吶喊』の自序や随筆「藤野先生」に記されている。医学では人々の身体を救えるが、精神が愚弱であれば国は滅びる。だからこそ文学を通じて人々の意識を変え、社会を改革する必要があると考えたのである。
こうして魯迅は医学を捨て、文学の道へ進む決意を固めた。彼の選択は、単なる職業の転換ではなく、中国近代文学の誕生につながる歴史的な決断だった。仙台での幻灯写真の体験がなければ、『狂人日記』も『阿Q正伝』も生まれなかったかもしれない。医学から文学への転身は、魯迅の思想と文学史における最大の転機だった。
仙台での生活と東北大学退学
魯迅が仙台に滞在したのは、1904年から1906年までの約1年半である。仙台医学専門学校に入学した彼は、当時唯一の中国人留学生であり、日本人学生社会に単身で飛び込むことになった。教室では二列目や三列目に座り、真面目に講義を受けていたと同級生は回想している。
下宿生活も記録に残っており、米ケ袋の佐藤屋や宮川家に滞在した。写真には髭を蓄えた魯迅の姿が残り、異国での孤独な生活を物語っている。藤野厳九郎教授との交流は特に重要で、彼のノートを朱筆で添削し続けた藤野先生の誠実さは魯迅の心に深く刻まれた。後に随筆「藤野先生」として記録され、中国でも広く読まれる作品となった。
しかし、日露戦争の幻灯写真を見たことで文学への転身を決意した魯迅は、1906年春に退学する。藤野先生は彼の退学直前に「惜別」と記した写真を贈り、魯迅はその写真を生涯大切にした。仙台での生活は短かったが、藤野先生との出会いと幻灯写真の体験は、彼の文学的覚醒の原点となった。
仙台市内には現在も魯迅ゆかりの地が残る。見学予約は必須だが、片平キャンパスの階段教室、魯迅像や碑、旧居跡の石碑などが整備され、中国からの留学生や観光客が訪れる。仙台は魯迅にとって短い滞在地だったが、文学史に残る大きな意味を持つ場所であり、東北大学も「魯迅記念展示室」を設けてその足跡を伝えている。
魯迅の退学は、医学を捨て文学を選んだ決断であり、仙台での生活はその転機を象徴する時間だった。仙台は彼の人生において、文学者としての出発点となった都市なのである。
参考
魯迅の階段教室(旧仙台医学専門学校六号教室) | 一般公開施設・病院等 | 大学概要 | 東北大学 -TOHOKU UNIVERSITY-
実際に仙台の魯迅ゆかりの地を訪ねる
仙台の街を歩きながら、私は魯迅の足跡を辿る旅に出た。中国近代文学の父と呼ばれる魯迅が、1904年から1906年までのわずか一年半を過ごした場所は、今も静かにその記憶を伝えている。まず訪れたのは東北大学片平キャンパスに残る「魯迅の階段教室」。ここは彼が解剖学や基礎医学を学んだ教室であり、日露戦争の幻灯写真を見て文学への転身を決意した場所でもある。現在は史料館の管理下にあり、見学には事前予約が必須だ。扉を開けて内部に足を踏み入れると、百年以上前の空気がそのまま残っているようで、魯迅が座っていたとされる席に思わず目を奪われた。異国で孤独に学んだ彼の姿を想像すると、胸が熱くなる。
キャンパス内には「魯迅記念像」も設置されている。1992年に建立されたこの像は、仙台と中国との文化交流の象徴であり、訪れる人々が花を手向ける姿も見られる。さらに東北大学資料館には「魯迅記念展示室」があり、藤野先生の朱筆添削ノートの複製や、魯迅の下宿生活を伝える写真などが展示されている。展示室の静けさの中で、彼が文学者として歩み始める前の葛藤を感じ取ることができた。
東北大学史料館(旧東北帝国大学附属図書館閲覧室)
所在地:〒980-0812 宮城県仙台市青葉区片平2丁目1−1 東北大学片平キャンパス内
次に足を運んだのは、米ケ袋一丁目公園。ここはかつて魯迅が下宿していた「佐藤屋」があった場所である。木造住宅は解体され、現在は整備された公園となっているが、案内板が魯迅の滞在を伝えている。異国の地で暮らした彼の孤独な日々を思うと、ここに立つだけでその生活の一端に触れられるような気がした。公園の静けさの中で、魯迅が夜に机に向かい、ノートに向かっていた姿を想像すると、文学への情熱が芽生えていく瞬間が重なって見えた。
米ヶ袋一丁目公園
〒980-0813 宮城県仙台市青葉区米ケ袋1丁目1−11
最後に訪れたのは仙台市博物館。ここには2001年、魯迅の生誕地である中国浙江省紹興市から贈られた魯迅の像が設置されている。堂々とした姿の像を前にすると、魯迅の想いが今も日中をつないでいることを強く感じた。仙台での短い滞在が、彼の文学的覚醒の原点となり、その後の中国文学史を変える大きな一歩となったことを思うと、像の前で自然と頭を垂れてしまった。
魯迅の像
〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内
仙台の街に点在する魯迅ゆかりの地を巡ることで、私は彼の人生の転機を追体験した。階段教室での幻灯写真の衝撃、藤野先生との出会い、下宿での孤独な生活、そして日中を結ぶ記念像。これらすべてが、魯迅の文学者としての出発点を形づくっている。仙台は彼にとって短い滞在地だったが、その意味は計り知れない。今も魯迅の想いは仙台の街に息づき、日中の文化交流を支える絆となっている。訪ね歩いたその一つひとつの場所で、私は文学と歴史が交差する瞬間に立ち会ったような感動を覚えた。
参考
魯迅の仙台留学 | 魯迅と東北大学-歴史のなかの留学生 | 東北大学史料館 魯迅記念展示室 | 魯迅と東北大学-歴史のなかの留学生 | 東北大学史料館 魯迅記念展示室
仙台市「14 米ケ袋一丁目公園」
まとめ
魯迅の仙台留学はわずか一年半と短いものだったが、その意味は非常に大きい。彼は医学を志して仙台に来たが、日露戦争の幻灯写真を見て文学の道へ進む決意を固めた。肉体を救うよりも精神を変革することが必要だと悟った瞬間である。藤野先生との出会いもまた、彼の人生に深い影響を与えた。誠実に学生を導く姿勢は、魯迅の心に刻まれ、随筆「藤野先生」として後世に残された。
仙台医学専門学校を退学した後、魯迅は文学者として歩み始め、1918年に『狂人日記』を発表。中国近代文学の幕を開ける存在となった。仙台での経験は、彼の文学的覚醒の原点であり、藤野先生から贈られた「惜別」の写真は、彼の書斎に飾られ続けたという。
実際に片平キャンパスを訪ねると、魯迅が学んだ階段教室や藤野先生の研究室跡が今も残り、静かな空気の中に往時の記憶が漂っていた。仙台は魯迅にとって短い滞在地だったが、文学史に残る大きな意味を持つ場所である。宮城を歩くことで、世界文学の巨人がここで人生を変える決断をしたことを肌で感じられる。仙台は、文学と歴史が交差する街なのだ。
投稿者プロ フィール

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地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。
