【宮城県石巻市】難読地名「桃生」の読み方・由来語源をたどる旅in桃生城跡(ものうじょうあと)
地名は、土地の記憶を編み込んだ器だ。私は地域文化を記録する仕事をしている。各地の地名の由来や伝承、神社の祭神、産業の背景を掘り下げ、現地の空気を感じながら文章にする──それが私の旅のかたちだ。
今回訪れたのは、宮城県石巻市の旧・桃生町(ものうちょう)。2005年の市町村合併以前は桃生郡に属し、北上川と旧北上川に挟まれた肥沃な沖積地に広がる町だった。事実、この北上川流域は米はもちろん、果樹栽培や桃生茶といった農作物も現在栽培されている。地名の響きは「桃が生る」と書いて「ものう」と読む。柔らかく、果実のような印象を受けるが、その由来には古代語やアイヌ語、そして城柵の記憶が絡む深い背景がある。
私はその名の由来を確かめるため、石巻市飯野中山にある桃生城跡を訪れた。丘陵地の中腹にある城跡は、静かな杉林に囲まれ、案内板と石碑がひっそりと立っていた。周囲には条里制の痕跡を思わせる整然とした水田が広がり、北上川の流れが遠くに見える。風が吹くたびに、杉の葉がさわさわと鳴り、まるで古代の記憶が語りかけてくるようだった。
桃生──その名に込められた意味を辿ることで、私は土地の記憶に触れる旅を始めた。
石巻市役所 桃生総合支所
所在地:〒986-0313 宮城県石巻市桃生町中津山江下10
桃生の読み方
桃生は「ものう」と読みます。古代からある地名です。
桃生の語源・由来
「桃生(ものう)」という地名には、複数の由来説が伝わっている。
第一の説は、アイヌ語由来説。『宮城県史』地名編や『大崎市史』などによれば、アイヌ語の「モムヌプカ(mom-nup-ka)」──「流域の丘」あるいは「小さな丘が連なる場所」を意味する語が語源とされ、これに漢字「桃生」が当てられたという。実際、桃生町は北上川と旧北上川に挟まれた沖積地であり、丘陵が点在する地形と一致する。
第二の説は、古代地名の継承。奈良〜平安期にかけて、桃生郡は陸奥国の行政区画として存在し、『和名類聚抄』(平安時代の地名辞典)にも「桃生郡(もむのふ)」として記載されている。この「もむのふ」が後に「ものう」と訓じられたとされる。
また、地元の教育資料では「桃がよく生る土地」という民間語源も紹介されているが、これは後世の当て字的解釈であり、実際にはアイヌ語や古代地名の転訛が有力とされる。
私は城跡の周辺を歩きながら、地名が語る言葉の層に静かに触れた。桃生──その名には、古代の行政区画と先住民の言語、そして土地の風景が重なっている。
参考
河北新報「わいどローカル編集局>桃生(石巻市)」「発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>海道蝦夷、桃生城を襲撃」
『続日本紀』に記された桃生城の跡地へ
桃生という地名が文献に登場する最古の記録は、『続日本紀』である。天平宝字3年(759年)10月5日条には、陸奥国守・大野東人らの奏上により「桃生城(ものうのき)」が完成したことが記されている。これは、中央政権が蝦夷地に築いた城柵の一つであり、桃生が軍事・行政の要地であったことを示している。
さらに、宝亀5年(774年)3月2日条には、海道蝦夷による桃生城襲撃の記録が残されている。原文は以下の通り:
「賊徒復集、塞道絶往來、侵桃生城、敗其西郭、鎮兵不支、國司量事、興軍討之」
現代語訳: 賊徒が再び集まり、道を塞ぎ、往来を断った。桃生城を襲い、その西側の郭を破った。鎮守の兵は勢いを支えることができず、国司が事態をはかり、軍を起こしてこれを討った。
この記録から、桃生城は蝦夷との境界に位置する防衛拠点であり、地名「桃生」はすでに8世紀には漢字表記として定着していたことがわかる。地名は、戦と支配の記憶を刻む言葉でもある。
私は飯野中山の桃山城跡に立ち、杉林の静けさの中で、蝦夷と官軍が対峙した時代の緊張感を想像した。桃生──その名には、城と戦、そして言葉の記憶が息づいている。
桃生城跡
所在地:〒986-0131 宮城県石巻市飯野中山60−1
桃生城跡とは
桃生城跡(ものうじょうあと)は、宮城県石巻市飯野中山の丘陵地に位置する、奈良〜平安時代に築かれた古代城柵の遺構です。天平宝字3年(759年)に陸奥国守・大野東人の奏上によって完成が報告され、『続日本紀』にも「桃生城」の名が登場します。当時の中央政権は、蝦夷地との境界に防衛・行政拠点として複数の城柵を築いており、桃生城もその一つでした。
まとめ
桃生という地名は、柔らかな響きの奥に、古代の行政区画とアイヌ語の記憶、そして城柵と戦の記録が交差する言葉の器である。私は石巻市飯野中山の桃生城跡を訪れ、地名に刻まれた歴史の痕跡に静かに触れた。北上川の流れ、丘陵地の神社、条里制の痕跡──それらは、地名が語る風景だった。
『続日本紀』には、天平宝字3年(759年)に桃生城が完成したこと、宝亀5年(774年)に蝦夷が城を襲撃したことが記録されている。これらの記述は、桃生が軍事的・行政的に重要な地であったことを示すとともに、地名がすでに8世紀には漢字表記として定着していたことを証明している。
「桃生」は、アイヌ語「モムヌプカ=流域の丘」に由来するという説もあり、地形的にも整合性が高い。地名は、風景と暮らし、支配と祈りの記憶を編み込んだ器──桃生という名が語る物語を、私は静かに辿った。