【宮城県仙台市】地名「東八番丁」の読み方や由来・語源をたずねるin四社宮・大河原町
仙台の城下町を歩いていると、地名そのものが歴史の記憶を宿していることに気づかされる。今回訪ねたのは「東八番丁(ひがしはちばんちょう)」。仙台駅から南へ伸びる通りの一角にあり、東七番丁や東九番丁と並んで城下町の骨格を形づくっている。地名の響きは一見単純だが、その背後には伊達政宗の都市計画と、各地から集められた武人たちの暮らしが刻まれている。
仙台は1610年頃から仙台城を中心に城下町として整備され始めた。政宗は城を中心に武家屋敷を配置し、足軽や侍を出身地ごとに集団で住まわせた。彼らは自分たちの故郷の神社を勧請し、町内に祀ることで地元とのつながりを保った。若林区には成田町、五十人町、六十人町といった地名が残り、いずれも武人の出身地や人数に由来している。まるで近衛兵のように政宗を守る配置でありながら、同時に故郷を想う気持ちを大切にしていたことが伝わってくる。
東八番丁は大河原村(現・大河原町)出身の鉄砲足軽が住んだことから「大河原町」とも呼ばれていた。彼らは故郷から氏神を勧請し、四社宮を祀った。私はこの四社宮を訪ね、境内に立ったとき、大河原町を歩いた記憶が蘇った。地元の神を仙台に持ち込み、祈りを捧げ続けた足軽たちの心情を思うと、故郷を忘れない東北人の強い地縁意識が感じられた。
仙台の町づくりは、単なる都市計画ではなく、血縁や地縁を重んじる東北人の精神を反映したものだった。古代から蝦夷が大和朝廷と戦い続けた歴史を持つ宮城は、戦争をしてでも守りたい土地であり、そこに生きる人々の絆は強い。政宗が武人たちに仁義を通し、彼らもその人柄に惚れ込んで集ったのではないか。そんな想像を抱きながら、私は東八番丁の通りを歩いた。
参考
仙台市「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(《東八番丁》通り)」「町名に見る城下町」「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(《東九番丁》通り)」
所在地:〒984-0072 宮城県仙台市若林区
東八番丁の読み方と由来・語源
仙台の城下町には「番丁」と呼ばれる通りが数多く残っている。そのひとつが「東八番丁(ひがしはちばんちょう)」である。読み方は「ひがしはちばんちょう」。仙台駅から南へ伸びる細長い通りの一角にあり、東七番丁や東九番丁と並んで城下町の骨格を形づくっている。
由来は、仙台開府当初に足軽屋敷が置かれたことにある。特に東八番丁には柴田郡大河原村(現在の宮城県大河原町)出身の鉄砲足軽が住んでいたため、「大河原町」とも呼ばれていたという。町割りは、間口が狭く奥に長い屋敷割りが特徴で、効率的に土地を利用しながら防衛的な意味も持っていた。若林区には政宗の引退後の居城である若林城があり、その周囲に武人の町が配置された。まるで近衛兵のように政宗を守る構造だと思った。
大河原町の鉄砲足軽たちは故郷から氏神を勧請し、四社宮として祀った。これは、仙台藩が武人を出身地ごとに集団で住まわせ、地縁を保つために神社を設けたという城下町の特徴だろうと考えられる。このような町づくりは、他の城下町にはあまり見られない特徴ではないだろうか。血縁や地縁を重んじる東北人の精神が反映されており、古代から蝦夷が大和朝廷と戦い続けた歴史を持つ宮城・仙台の特徴的な文化だ。
「番丁」という呼称は、城下町の町割りに由来する。政宗は1610年頃から仙台城下を整備し、通りを番号で区切って武家屋敷を配置した。東八番丁はその一部であり、間口が狭く奥に長い屋敷割りが特徴的だ。封内風土記には「八番丁以下今廃宅タリ」とあり、天明の大飢饉による荒廃の様子も記録されている。地名は単なる呼称ではなく、歴史の記憶を宿す証なのだ。
東八番丁・四社宮を訪ねる
私は東八番丁を訪ね、四社宮に足を運んだ。境内に立つと、大河原町を歩いた記憶が蘇り、故郷を忘れず祈りを捧げ続けた足軽たちの心情が伝わってきた。彼らは仙台に住みながらも、地元の神を祀ることで故郷とのつながりを保った。これは、東北人の強い地縁意識を象徴しているだろう。
通りを歩くと、間口が狭く奥に長い屋敷割りの名残が見られ、城下町の歴史を感じさせる。周辺には東七番丁や東九番丁があり、それぞれに足軽屋敷や寺屋敷が置かれていた。栽松院や光寿院などの寺院は400年の歴史を刻み、城下町の文化を今に伝えている。
仙台城下町は、伊達政宗が慶長年間に築いた都市計画の結晶である。1610年頃から本格的に整備が始まり、城を中心に武家屋敷や町人町を配置し、広瀬川から水を引き入れ大人口の水を整備し、東北随一の城下町として発展した。特徴的なのは、武人たちを出身地ごとに集団で住まわせた点だ。成田町、五十人町、六十人町などの地名はその名残であり、人数や出身地に由来している。彼らは自分たちの故郷の神社を勧請し、町内に祀ることで地縁を保ち続けた。
若林区の成田町、五十人町、六十人町も訪ねたことがあるが、いずれも武人の出身地や人数に由来する地名であり、政宗の都市計画の特徴をよく示していた。若林城の周囲に武人の町を配置する構造は、政宗を守る近衛兵のようでありながら、同時に故郷を想う気持ちを大切にしていた。
東八番丁を歩きながら、政宗が武人たちに仁義を通し、彼らもその人柄に惚れ込んで集ったのではないかと想像した。忠誠と故郷への想いが交差する町づくりの意味が見えてくる。仙台の地名は、単なる歴史の痕跡ではなく、今も人々の心に息づく文化の証なのだ。
所在地:〒984-0051 宮城県仙台市若林区新寺1丁目7−38
電話番号:0222865103
まとめ
東八番丁を歩くと、仙台城下町の成り立ちが鮮やかに浮かび上がる。地名は単なる呼称ではなく、そこに住んだ人々の出身地や暮らしを映し出す鏡だ。大河原村出身の鉄砲足軽が住んだことから「大河原町」と呼ばれ、彼らが祀った四社宮はいまも残っている。境内に立つと、故郷を忘れず祈りを捧げ続けた足軽たちの心情が伝わってくる。
仙台の城下町は、政宗が1610年頃から築いた都市である。武人たちは出身地ごとに集団で住まわされ、成田町や五十人町、六十人町といった地名が生まれた。彼らは自分たちの故郷の神社を勧請し、町内に祀ることで地元とのつながりを保った。これは単なる都市計画ではなく、血縁や地縁を重んじる東北人の精神を反映した町づくりだった。
若林区は政宗の引退後の居城である若林城があった場所で、その周囲に武人の町が配置された。まるで近衛兵のように政宗を守る構造でありながら、同時に故郷を想う気持ちを大切にしていた。東北人は古代から蝦夷として大和朝廷と戦い続けた歴史を持ち、戦争をしてでも守りたい土地に生きてきた。その強い地縁意識が仙台の町割りにも表れている。
政宗が武人たちに仁義を通し、彼らもその人柄に惚れ込んで集ったのではないか。そんな想像を抱きながら東八番丁を歩くと、忠誠と故郷への想いが交差する町づくりの意味が見えてくる。仙台の地名は、単なる歴史の痕跡ではなく、今も人々の心に息づく文化の証なのだ。
投稿者プロ フィール

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地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。
