【背景と想い】なぜ「宮城蓮華紋瓦」なのか|地域文化伝統ラボ 第1弾アイテム特集

宮城県大崎市の大吉山瓦窯遺跡の蓮華紋瓦

蓮華紋の魅力

蓮華紋に惹かれたのは、ただ「美しい」と思ったことが始まりだった。幾何学的で左右対称、どこか数学的な秩序を感じさせる文様でありながら、花としての蓮は「泥の中でも美しく咲く」という象徴性を持つ。清らかさと力強さが同居する、不思議な魅力を放つ文様だ。歴史は古く、古代エジプトではロータス文様として知られていたという。

私が蓮華紋に出会ったのは、奈良の赤膚焼の蓮華紋皿だった。南都七大寺──東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、西大寺、薬師寺、法隆寺──の軒瓦に刻まれた蓮華紋を写した皿が、奈良の日常食器や土産物として、あるいは茶道の銘々皿として売られていた。私はその皿を手に取り、今も日常で使っている。蓮華紋の歴史を調べるうちに、それがロータス文様として紀元前のアフリカや中東にまで遡ることを知った。6世紀ごろ仏教伝来とともに日本へ入り、寺院建立の技術や経典、装飾具とともに「仏教伝来パッケージ」の1つとして伝わった文様だという。

そんな古代から続く文様が、宮城県北部──大崎市や色麻町の瓦窯跡から出土していると知ったとき、私は衝撃を受けた。アフリカや中東の古代文明が使っていた文様が、なぜ宮城の地で1300年前に作られていたのか。そこに強い興味が湧いた。

地域文化の課題

私は宮城県で育ったが、仕事では京都・大阪・奈良に長く関わり、地域文化のPRに携わってきた。外から宮城を見るようになって初めて、自分が地元の文化をほとんど知らないことに気づいた。地域文化とは、先祖が社会のために残し、民の力で守り続けてきたものだ。しかし現代では、地域のつながりは希薄になり、担い手不足・認知不足・需要減少によって、多くの文化が存続の危機にある。

地名「宮城」の読み方や由来・語源をたずねる|多賀城や鹽竈神社説、屯倉説とは?昔の国名も解説

宮城県の地名の由来を探る紀行文。鹽竈神社や多賀城を訪ね、古代から続く由緒ある地域の歴史と伝統を体感。大和朝廷の歴史と蝦夷文化が共存し、誇りある文化として育まれ…

失われるとしても、「知っていて失う」のと「知らずに失う」のでは意味が違う。地元がどんな歴史を持ち、なぜその文化が生まれたのか──それを知ることは、地域に生きる者の責任でもあると思う。

なぜ宮城で蓮華紋に注目するのか

蓮華紋瓦は、宮城北部を理解するうえで欠かせない存在だと思う。多賀城の瓦として作られたものであり、宮城という地名の由来も多賀城と塩竈神社にあるという説がある。多賀城碑(壺碑)が国宝に指定され、改めて注目が集まる今、遠く離れた大崎で蓮華紋瓦が作られていた事実は、宮城の歴史の奥深さを物語っている。

【宮城県】国宝「多賀城碑(壷碑)」の内容とは?いつ国宝指定に?松尾芭蕉との関係や駐車場・アクセス情報を解説

【宮城県】国宝「多賀城碑(壷碑)」は奈良時代に建立された日本三古碑のひとつで、多賀城の創建や改修を伝える唯一の史料です。松尾芭蕉が『おくのほそ道』で涙を流すほ…

多賀城は奈良の朝廷が置いた地方拠点のひとつであり、奈良は「シルクロードの最果て」と呼ばれる場所だ。その文化が確かに宮城まで届いていた。蓮華紋瓦を実際に見ると、大陸で発掘されたものと驚くほど似ている。創成期の多賀城は、まさに大陸文化の最前線だったのだ。

【宮城県】地名「多賀城」の読み方や由来・語源をたずねる|国府多賀城とは?2024年に国宝認定された壷碑や奥の細道との関係を紹介

宮城県の地名「多賀城(たがじょう)」は、東北の歴史を語る上で欠かせない存在である。私は地域文化ライターとして現地を歩き、その土地に刻まれた記憶を探ることを大切…

宮城県の魅力と蓮華紋

宮城県は、古代から驚くほどグローバルな土地だった──蓮華紋瓦の存在を知ったとき、まずそう感じた。ユーラシア大陸やアフリカ大陸で生まれた文様が、シルクロードを経て奈良へ、そして宮城へと届き、千年以上の時を超えて今の私の手元にまでつながっている。その文化のダイナミズムに、ただただ驚嘆した。

宮城県北部の古代史といえば、古墳時代以降は蝦夷の歴史が中心となり、当時を知る資料は決して多くない。残されているのは、朝廷側──勝者の視点から書かれた記録がほとんどだ。阿弖流為(アテルイ)や母禮(モレ)は、かつて「賊」とされたが、いまでは京都・清水寺に祀られ、大阪・枚方にも顕彰碑が建つ。悪路王は鳴子温泉の鬼首伝説として語り継がれ、岩手南部にも痕跡が残る。彼らは確かにこの地に生き、文化を築き、暮らしを営んでいた。

さらに、多賀城が築かれた後には、朝鮮半島の百済王族が宮城エリアの行政に関わり、涌谷町では日本初の金が発見され、まさに“古代のゴールドラッシュ”が起きた。百済王はその功績から大阪に大きな拠点を構えたと伝わる。宮城は大陸文化・朝鮮文化・蝦夷文化が交差する、東北の中でも特異な文化圏だったのだ。

【宮城県】日本初の金を見つけた朝鮮王族「百済王敬福」ってどんな人?読み方や由来、なぜ宮城にいたの?実際に行ってみた黄金山神社や多賀城に行ってみた

宮城県涌谷町で日本初の金を発見し東大寺大仏建立に献上した百済王敬福(くだらのこにきし・きょうふく)。奈良時代に陸奥守として多賀城に常駐し、政治と文化を担った渡…

【宮城県涌谷町】日本初の金の産地「涌谷町」の読み方や語源・由来を訪ねるin黄金山神社・わくや天平ろまん館

宮城県涌谷町の地名の由来や読み方を探る現地訪問記。奈良時代の天平産金、黄金山神社と仏堂、砂金採取の地形と作業、そして「谷が湧きかえる」ような活気から生まれた地…

その後、宮城北部は蝦夷との争いの舞台となり、前九年・後三年の役を合わせれば約300年ものあいだ戦いが続いた。それでも人々はなぜこの地に住み続けたのか。争いを覚悟してでも離れたくなかったほど、豊かで美しい土地だったのだと思う。蓮華紋瓦は、そんな遠い先祖たちの営みを静かに物語っている。

大崎平野は、当時の朝廷と蝦夷が激しく争った橋頭堡だった。多賀城は比較的早く手放されたが、この平野だけは互いに命をかけて奪い合った。それほど価値のある土地だったのだ。今では世界が注目する農作物が育つ豊穣の地であり、その魅力の本質を知りたいと強く思うようになった。知ることで、胸を張って「この土地は素晴らしい」と語れる1つのきっかけになると勝手に思っている。

ゆえに地域伝統文化ラボの創作活動として「宮城蓮華紋瓦皿」を第1弾に選んだ。 美しいから。歴史が深いから。 そして何より、この文様が「宮城の文化を知りたい、伝えたい」という原点へ立ち返らせてくれるからだ。

このプロジェクトを通して、宮城の文化をもう一度見つめ直し、未来へつなぐ小さな力になれればと願っている。

投稿者プロ フィール

東夷庵
東夷庵
地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。

\ 最新情報をチェック /

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です