【宮城県】日本初の金を見つけた朝鮮王族「百済王敬福」ってどんな人?読み方や由来、なぜ宮城にいたの?実際に行ってみた黄金山神社や多賀城に行ってみた

はじめて多賀城跡の資料を手にしたとき、私はある名前に目を奪われた。「百済王(くだらのこにきし)」という響きである。百済は朝鮮半島南西部に存在した古代王国であり、その王族の末裔がなぜ宮城の地にいたのか。そして、その人物が日本で初めて金を発掘し、奈良の大仏建立に献上したという事実に触れたとき、強い好奇心が湧き上がった。さらには、百済王の子孫の方が実際にいて、資料展示なども行っているという。宮城の歴史を歩いてきたつもりでいたが、東北の地に朝鮮半島の王族の血を引く人物が深く関わっていたことは、私にとって驚きであり、同時に文化のダイナミズムを感じさせる発見だった。

百済王敬福(くだらのこにきし・きょうふく)は奈良時代に陸奥守として多賀城に赴任し、涌谷町で金を発見した人物である。彼の功績は『続日本紀』にも記録され、聖武天皇が大仏建立のために必要としていた金を献上したことで、東大寺の完成に大きく寄与した。宮城の地から産出された金が、日本の宗教と文化の象徴である大仏に使われたという事実は、地域史と国家史が交差する瞬間であり、まさに「天平ロマン」を感じさせる。

【宮城県】地名「多賀城」の読み方や由来・語源をたずねる|国府多賀城とは?2024年に国宝認定された壷碑や奥の細道との関係を紹介

宮城県の地名「多賀城(たがじょう)」は、東北の歴史を語る上で欠かせない存在である。私は地域文化ライターとして現地を歩き、その土地に刻まれた記憶を探ることを大切…

さらに、多賀城や黄金山遺跡から発掘される蓮華文軒丸瓦は、奈良の飛鳥寺で蘇我馬子が日本初の瓦寺院を建てた際に百済王氏が技術を伝えたとされるものと同系統である。瓦の文様は仏教の象徴であり、遠くユーラシア大陸から伝わった文化が宮城の地に根付いていることを示している。こうした文化の流れを辿ると、宮城は単なる地方ではなく、古代東アジアの交流の舞台であったことが見えてくる。

私はこの事実に触れたとき、宮城の歴史が持つ奥深さに改めて感動した。百済王敬福の存在は、宮城を東アジアの文化交流の結節点として位置づけるものであり、地域文化の保存がいかに重要かを教えてくれる。

参考

多賀城市古今往来-たがじょう人物伝

由緒 - 百濟王神社(特別史跡 百済寺跡)公式ホームページ

産経新聞「百済王家末裔が船橋に! 習志野で企画展、資料など200点

百済王敬福とは?読み方と由来

百済王敬福(くだらのこにきし・きょうふく、698–766)は奈良時代に活躍した渡来系氏族「百済王氏」の一員であり、日本で初めて金を献上した人物として知られる。彼の名は『続日本紀』に記録され、天平21年(749年)、陸奥国小田郡(現在の宮城県遠田郡涌谷町)で産出した黄金を朝廷に献上したことで、東大寺大仏の鍍金に大きく貢献した。聖武天皇はこの報告を大いに喜び、詔を発して全国の神社に幣帛を奉じ、大赦を行ったと伝えられる。

「百済王(くだらのこにきし)」という氏姓は、朝鮮半島の百済王族の血統を示す特別な姓である。百済は660年、唐・新羅の連合軍によって滅亡した。王子豊璋は日本に渡り、百済再興を願って日本の援軍を得て帰国したが、663年の白村江の戦いで日本軍は大敗し、百済は完全に滅亡した。この時、豊璋の弟である善光(禅広)は日本に留まり、帰国できずにいた。翌664年、善光は難波に拠点を与えられ、朝廷に仕えるようになり、691年には「百済王氏」という氏姓を与えられた。これが百済王氏の始まりである。

つまり、百済王氏は白村江の戦いの敗北と百済滅亡の結果、日本に定着した王族の末裔であり、朝廷から正式に貴族として認められた渡来系氏族だった。彼らは文化や技術の伝播に大きな役割を果たし、国司や京官として活躍した。敬福の父・百済王郎虞も摂津亮を務め、大学寮の充実に尽力した人物であり、一族は代々朝廷に仕えていた。

敬福自身は陸奥守として東北の政治と軍事を担い、蝦夷との境界に立つ緊張感の中で資源開発を進めた。その中で涌谷町で金を発見し、国家に献上した功績は、百済王氏が日本の歴史に深く関わった証でもある。彼の存在は、宮城の地が古代東アジアの文化交流の舞台であったことを示す象徴的な人物像であり、白村江の戦いの余波が宮城の歴史にまで及んでいることを物語っている。

参考

大阪府立近つ飛鳥博物館「百済王氏ガイドブック

なぜ宮城にいたのか?陸奥守の役割

奈良時代、陸奥国は蝦夷との境界に位置する重要な地域であり、朝廷にとって軍事・経済の拠点だった。陸奥守はその国司のトップであり、政治・軍事・経済を統括する役職である。百済王敬福はこの陸奥守に任じられ、多賀城に常駐した。多賀城は陸奥国の国府であり、東北支配の中心として機能していた。

敬福が宮城にいた理由は、単なる赴任ではなく、朝廷の東北経営における重要な役割を担っていたからである。蝦夷との関係調整、国府の運営、資源開発など、陸奥守の職務は多岐にわたった。その中で涌谷町で金を発見したことは、彼の最大の功績であり、国家的な意義を持つ出来事だった。

【宮城県涌谷町】日本初の金の産地「涌谷町」の読み方や語源・由来を訪ねるin黄金山神社・わくや天平ろまん館

宮城県涌谷町の地名の由来や読み方を探る現地訪問記。奈良時代の天平産金、黄金山神社と仏堂、砂金採取の地形と作業、そして「谷が湧きかえる」ような活気から生まれた地…

陸奥守は単なる地方官ではなく、中央と地方を結ぶ要の存在だった。敬福が百済王氏の血を引く人物であったことは、朝廷が彼に大きな信頼を寄せていた証拠でもある。渡来系氏族は文化や技術を伝える役割を担い、同時に地方統治においても重要な役割を果たした。

宮城に赴任した敬福は、蝦夷との境界に立つ緊張感の中で、地域の資源を発見し、国家に献上することで歴史に名を刻んだ。彼の存在は、宮城が古代日本の政治と文化の最前線であったことを示している。多賀城跡を歩くと、敬福がこの地で果たした役割の大きさを実感できる。

参考

涌谷町「わが町涌谷の歴史~その3奈良の大仏と涌谷の金

立命館大学父母教育後援会「日本の古代を築いた人びと Vol.11

涌谷町にて日本初の金の発見

奈良時代の天平21年(749年)、百済王敬福は陸奥守として赴任していた宮城の涌谷町で砂金を発見した。これは日本史上初めて記録された金の産出であり、『続日本紀』にも「陸奥国から金を献上」と明記されている。発見された金は、当時建立が進められていた東大寺大仏の鍍金に用いられたと伝えられる。聖武天皇はこの報告を大いに喜び、「わが国に金があることは天の加護であり、仏法の繁栄を示すものだ」と詔を発した。

この出来事は単なる資源発見にとどまらず、国家的な意義を持つものだった。大仏建立は国の安寧を祈る一大事業であり、その象徴に宮城の金が使われたことは、地方と中央が精神的に結びついた瞬間でもある。金の献上は陸奥国の存在感を高め、東北が国家の一部として確固たる位置を占める契機となった。

百済王敬福の功績は、渡来系氏族の末裔が日本の歴史に深く関わった証でもある。彼の発見は宮城の地を「黄金の国」として知らしめ、後世にまで語り継がれることとなった。

黄金山神社と多賀城跡をたずねる

宮城を歩く旅の中で、私が最も心を揺さぶられたのは涌谷町黄金山神社多賀城跡を訪ねた時だった。どちらも百済王敬福の功績と深く結びついており、奈良時代の東北がいかに国家の大事業に関わっていたかを肌で感じることができる場所だ。

まず足を運んだのは黄金山神社。境内に立つと「日本初の金産出地」の碑が目に入り、ここがまさに東大寺大仏建立を支えた黄金のふるさとであることを実感した。祭神は金山毘古神をはじめ、天照皇大神、猿田彦命などが祀られ、産金の地にふさわしい神々が鎮座している。社殿は江戸時代末期に再建されたものだが、周囲の空気は奈良時代から続く信仰の重みを漂わせていた。

【宮城県涌谷町】日本初の金の産地「黄金山神社」で金運や金文化をたずねるin黄金山神社

宮城県涌谷町の黄金山神社は、日本初の金産地として奈良時代に東大寺の大仏建立を支えた由緒ある神社。金運スポットとしても知られ、万葉歌碑や茶室「くがね庵」、ベガル…

神社の由緒を辿ると、天平21年(749年)、陸奥国守百済王敬福が涌谷の小田郡で産出した黄金900両を朝廷に献上したことに始まる。聖武天皇はこの報告に歓喜し、年号を「天平」から「天平感宝」へ改めたほどである。大仏建立に必要な鍍金用の金が国内で初めて産出されたことは、国家的な奇跡と受け止められた。境内には万葉歌碑もあり、大伴家持が詠んだ「すめろぎの御世栄えんと東なるみちのく山に黄金花咲く」という歌が刻まれている。ここが万葉集に詠まれた北限の地であることも、学者や文人を惹きつけてきた理由だ。

所在地: 〒987-0121 宮城県遠田郡涌谷町涌谷黄金宮前23
電話番号: 0229-42-2619

次に訪れたのは多賀城跡。ここは神亀元年(724年)、大野東人によって築かれた陸奥国府であり、奈良時代から平安時代にかけて東北の政治・軍事・文化の中心地だった。広大な政庁跡に立つと、条坊制の都市が広がり、蝦夷との境界に立つ緊張感を背負った国府の姿が目に浮かぶ。外郭南門や正殿の復元表示は往時の威容を偲ばせ、ここに百済王敬福も常駐していたのだと思うと感慨深い。

多賀城は単なる地方の役所ではなく、平城京の大宰府と並び、日本の南北を支える二大拠点だった。ここから発掘された木簡や漆紙文書は国の重要文化財に指定され、政庁の機能や人々の生活を今に伝えている。さらに、周辺には多賀城廃寺や陸奥総社宮があり、仏教と神祇が並び立つ奈良時代の宗教的景観を示している。

黄金山神社と多賀城跡を歩くことで、私は百済王敬福の功績が単なる金の発見にとどまらず、国家の鎮護と文化交流の象徴であったことを実感した。黄金山神社の砂金は東大寺大仏を完成させ、多賀城はその政治的基盤を支えた。両者を結ぶ歴史の糸は、宮城の地が古代日本の最前線であったことを雄弁に物語っている。

所在地:〒985-0864 宮城県多賀城市市川

黄金山神社と多賀城跡を歩くことで、私は宮城の地が古代日本の政治と文化の最前線であったことを実感した。地方に眠る歴史が、国家の大事業と結びついていたことに感動を覚えた。

参考

黄金山神社のご案内

出土品「蓮華文軒丸瓦」と天平ロマン

多賀城や黄金山遺跡からは蓮華文軒丸瓦が発掘されている。蓮華文様は仏教の象徴であり、奈良の飛鳥寺で蘇我馬子が日本初の瓦寺院を建てた際、百済王氏が技術を伝えたとされる。瓦に刻まれた蓮華文様は、遠くユーラシア大陸から仏教とともに伝わった文化の流れを示している。

この史実だけでも十分に興味深いが、さらに宮城で発掘される蓮華文様の瓦には、朝鮮半島の新羅の職人が制作に携わっていたという記録が残されている。多賀城陸奥総本社宮の資料によれば、新羅系の技術者が瓦の製作に関わり、文様の造形に独自の工夫を加えていたという。つまり、百済王氏が伝えた技術に加え、新羅の職人が実際の制作に参加していたことで、宮城の瓦は東アジアの文化交流の結晶となっていたのだ。

瓦一枚に込められた文化のダイナミズムを思うと、まさに「天平ロマン」を感じる。仏教が大陸から伝わり、建築技術が広まり、文様が各地に根付く。その流れが宮城の地にまで届き、今も発掘される瓦に刻まれている。宮城を歩くことで、古代の人々が大陸から伝えた技術と信仰が地域文化として保存されていることに感動した。

蓮華文軒丸瓦は単なる建材ではなく、古代東アジアの交流を物語る文化遺産である。宮城の地に残るその瓦は、百済王氏と新羅の職人が織りなした文化の結晶であり、天平の時代の壮大なロマンを今に伝えている。

参考

素弁八弁蓮華文軒丸瓦(伝奈良県横井廃寺出土)

素弁蓮華文軒丸瓦 - 文化遺産オンライン

多賀城陸奥総本社宮「歴史の風 1 〜貞観の大地震と多賀城の復興

まとめ

百済王敬福という人物を追いかけて宮城を歩くと、古代東アジアの文化交流がいかにダイナミックであったかを実感する。奈良時代、陸奥守として多賀城に常駐した敬福は、涌谷町で日本初の金を発見し、東大寺大仏建立に献上した。『続日本紀』に記録されたこの出来事は、地方の資源が国家の大事業に直結した象徴であり、宮城の地が日本史の大きな転換点に関わったことを示している。

涌谷町の黄金山神社を訪ねると、金発見の伝承を今に伝える社殿と碑が静かに佇み、古代の息遣いを感じさせる。多賀城跡では広大な礎石群が奈良時代の国府の姿を伝え、百済王敬福がこの地で政治と文化を担ったことを思い起こさせる。さらに、発掘された蓮華文軒丸瓦は、飛鳥寺で蘇我馬子が建てた日本初の瓦寺院に由来し、百済王氏が技術を伝えたとされるものだ。宮城で出土する瓦には新羅の職人が制作に携わった記録も残り、百済と新羅、そして日本が交差する文化の結晶として輝いている。

瓦一枚に刻まれた蓮華文様は、仏教がユーラシア大陸から伝わり、建築技術とともに日本へ広がった壮大な歴史の流れを物語る。宮城の地に立つことで、古代の人々が大陸から伝えた技術と信仰が地域文化として保存されていることに感動を覚える。百済王敬福の足跡は、単なる地方史ではなく、日中韓を結ぶ文化交流の象徴であり、宮城の魅力を世界へ伝える遺産である。黄金山神社や多賀城跡を歩くと、天平ロマンの息吹が今も感じられ、文化のダイナミズムに心を揺さぶられる。

投稿者プロ フィール

東夷庵
東夷庵
地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。

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